生活と文化の総合センター

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表層の冒険者たち

表層の冒険者たち 谷川渥


 私が「表層の冒険」という言葉を使い始めてから、もう20年近く経つ。直接的には絵画のありように期待をこめての言葉だったが、今回「表層の冒険者たち」というとびきりの表現を用いるにあたって、あらためてこの言葉について若干の説明をしておきたい。 

「表層」の対、あるいは反対語があるとすれば「深層」であろう。表層/深層の対立は、また、浅い/深い、表面的/深奥的、外面的/内面的、あるいは、表/裏、こちら/あちら、近さ/深さ、といった概念の対立を呼びこみ、それらと同等の関係で並ぶと思われるかもしれない。そしてこれらの対語の後者のほうに価値があると。つまり、浅いよりは深いほうが、表面的であるよりは深奥的であるほうが、外面的であるよりは内面的であるほうが価値的であり、表よりは裏に、こちらよりはあちらに、近いところよりも遠くのほうに本当のもの、理想的なもの、真実のものが潜んでいると。そもそも「表面的」という言葉自体が、すでに価値的に貶めることにつながっている。

 こうした事情と軌を一にして、芸術は内面的真実の表出であるといった考え方が自明のように通用している。「芸術は表現である」という一見否定しようのないテーゼは、この考え方に支えられている。そしてこの「内面的真実」は、また「個性」「個我」「自我」・・・つまりこのかけがえのない「私」という信仰に支えられているのだ。

  だがよく考えてみよう。この「私」の「内面」や「深奥」に何が潜んでいるというのだろうか。肯定的否定的いずれであるにせよ、要するに「感情」であり「欲望」であろう。しかし、これらを表出することが「芸術」であるわけではない。赤ん坊がミルクを欲しがって泣くのも、人がキレて暴虐をはたらくのも、「内面」の「感情」や「欲望」の表出であり表現なのだ。「私」の[内」や「奧」や「深み」に何かすばらしいものが潜んでいるわけではないし、仮にそれがどんなに肯定的な「感情」や「欲望」であるにしても、それをそのまま「外」に、「表」に出すこと自体が芸術であるわけでもない。

  ニーチェは、目に見えない奧に、内に、裏に、あるいは彼方に何か真実が、すばらしい理想が存在するという考え方を「背後世界論」と呼んだ。西洋の哲学思想を長きにわたって支配してきたこうした「背後世界論」と手を切ろうとしたのがニーチェであり、その彼が、「表面に、皺に、皮膚に敢然として踏みとどまること」というすばらし言葉を残している。

 私が「芸術」とりわけ「絵画」について「表層の冒険」というとき、つねに念頭にあるのはニーチェのこの驚くべき認識である。「深み」へ、「内部」へ、「内面」へ安易に逃げてはならない。「表面に、皺に、皮膚に敢然として踏みとどまること」、それが「表層の冒険」である。

   だが誤解してはならない。「表層」の強調は、かならずしも伝統的な遠近法ないし透視図法をア・プリオリに否定し、「奥行き」の表象を頭から否定することではない。またこれは「具象」を否定し、「抽象」を良しとすることに直結するわけでもない。もとより伝統的な透視図法にも写実にも依拠して事足れりとするわけにはいかないとすれば、どうすればいいのか。

 80年代バブルのはじけた頃から、この日本でおそらくはイタリアの3C、つまり、キア、クッキ、クレメンテ、あるいはある種のアメリカン・ポップの影響下に、発育不全の子供みたいな薄っぺらな表象を意図的に担う傾向が顕在化した。

 そしてまたもうひとつの傾向、漫画的表象の美術化とでもいうべき現象が生じ、それが日本の漫画やアニメの水準の高さに助けられ、またそれと相乗効果をなして一定の評価を得てきているらしい。だが、「国際的に」受けているとか高額で取引きされたとかされないということは私にはほとんどどうでもいいことで、これら二つの傾向が、六〇年代以降の「アート」群の跳梁の果てに行方を見失った現代美術がモダニズム的「抽象」への素朴な回帰を敬遠しながら選択するほかはなかった方途であったにせよ、そうした作品群が真に「表層の冒険」たりえているか否かここが問題である。そして私にはそう思えないのである。

 ビザンチン美術と同じように抽象美術もまったく同じ姿のままであると指弾したのは、イタリアの碩学マリオ・プラーツであった。ネクタイやスカートの図柄のような画面が芸術であるなどと称しているのを見ると、理性の限界が超えられてしまったと思わずにはいられないといってのけたのである。これは直接にはアンフォルメルを指しての言葉だったが、この何ともきつい言葉は現在でもそのまま生きていると見なければなるまい。

 「表層の冒険」ーーー言うに易く行うは難し。「表層」そのものをかけがえのない「自我」として引き受けること。それが「画家」というものであろう。
表層の冒険者たちーーー出でよ!


谷川 渥
東京大学大学院博士課程修了。現在、國學院大学文学部教授。専攻美学芸術学。著書に、『形象と時間』、『美学の逆説』、『鏡と皮膚』、『文学の皮膚』、『廃墟の美学』、『図説だまし絵』、『美のバロキズム』、等。懸案の書物『シュルレアリスムのアメリカ』を近々みすず書房より刊行予定。


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