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欠如ゆえの窮屈/小林等

 年明け、伊能敬子さんが渋谷のアクセサリーショッブで発表している3D写真「展」を見ての感想をくもの巣の上で申し上げます。「展覧会」自体への意見は伊能さんご本人に電話で伝えたのでここでは詳らかにはせず、いささかなりとも一般性のあることを書きます。
 作家のステイトメントとおぼしき短文が会場の壁に張り出され、ファイルに入れられて、見たり手にとって読むことができました。伊能さんのですます調、体言止めの文体にはユーモアがあって一女性専用通勤車両の乗車記など一、美術の作り手のみならず書き手としての存在も期待されるのですが、壁面かファイルのいずれかにあったくだりに、少しぱかりこだわりたいと思います。

 近ごろホワイト・キュープ(美術館、画廊の展示空間)が窮屈になってきた、という旨のフレーズがあったように記億します。今回、伊能さんはオフ・ギャラリーの街中のアクセリーショップで、絵画・彫刻・インスタレーションではない、それどころか街中からさらに脳内へ反転し現象する3D写真「展」を発表されたのだから、上記の文言が掲げられたのは理にかなっています。しかし、ここで伊能さんの展覧会から一たん離れて私が考えたいのは、なぜホワイト・キュープが窮屈になったのか、ということです。
 大雑把にいって欧米のモダンアートの歴史は、ホワイト・キュープ=ニュートラルな展示空間に守られつつ形成されてきたと思われますが、今から40年近く前その歴史が飽和点に達し、絵画的・彫刻的な充実/開放は縮減しモノに接近していった(ex.ポッブ、ミニマル、コンセプチュアル)。これがいわゆるコンテンポラリーアートの始まりでしょうが、20世紀前半のダダ的意識も引き継いでなされたあの縮減は、皮肉にも依然、ホワイトキュープの内部において展開され、こんにちではメディア的な意匠を凝らすに至っている。しかし、注意すべきなのは伊能さんのみならず私も感じている「窮屈」とは、とりも直さず作品の充実の「欠如」、見る者の視覚の解放の「不能」により、ホワイト・キュープのニュートラリティが実現されず、逆に白々としたそれ(展示空間、ひいては縮減の過程で強調される芸術の観念)を意識ぜざるを得ない、といった、点においてであることです。

 上野駅公園口左側のホワイト・キュープ、プラックやポナールが並べられた1F奥の展示室に、土産物コーナーから松任谷由美の歌が流れ込んくるあの下品な上野の森美術館の「MOMA」展でさえ、充実しかつ開放的な絵画空間を持つマティスの『金魚と彫刻』、ポロックの『ナンバー1』の前に立つと、展示会場を忘却させる時空の生成を感得できました。ニュートラリティはその時、実現されていたと思います。
 伊能敬子さんのこのたびの試みは貴重ですが、それに鑑みて私が思うのは要するにこういうことです。ホワイト・キュープは忌避すべき空間ではない、そこに置かれる絵画や彫刻もまた、この国では探求し尽くされてはいないのだから忌避されることはない、なぜなら、それらこそがホワイト・キュープを超出するかもしれないのだから一。

 MASC同人の方々にはまたぞろの見解を申し上げましたが、とりあえず紙メディア「FACE」初号担当者としては上述の意識の下、冊子を編んでいくつもりです。引き続きご意見ご批判をいただきたく思います。

       

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