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私のワールド・トレード・センター/坂井眞理子

 2001年9月11日の夜、10月9日からはじまるニューヨークでの個展の準備 をしていた。その時たまたま付けたラジオでワールド・トレード・センターの2本のビルに2機の飛行機が激突し、それがテロによるものだという、ニュースを知った。
 私も私の家族もニューヨークではいつも泊めてもらう友人のR夫妻がワールド・トレード・センターのすぐ近くのチェンバー通りに住んでいる。電話をしてみるが通じない。やっと電話がかかってきたのは2週間後の24日だった。

 11日の朝R夫妻はものすごい音と激しい揺れに驚いて屋上に出てみると目の前のワールド・トレード・センターの1つのビルに飛行機の形そのまま穴がぽっかりと空いているのを見たのだそうだ。そして続いて2機目の飛行機がもうひとつのビルに激突したのを見て、パスポートと現金を掴んで外に走り出て人々と一緒に北へ向かってひたすら走ったという。途中警官が「毒ガスだから後ろを向いてはいけない」と叫ぶので、一体何が起こったのか解らず友人宅のテレビでワールド・トレード・センターが崩れ落ちるのを見たのよ、と言った。その後夫妻が住むチェンバー通りには金網が張られそこから南をクライム・ゾーンと呼んで厳重に警備されいまだに家へ帰れないというから気の毒だ。
 私がニューヨークに住んだ1962年にはワールド・トレード・センターはまだなくてエンパイアステートビルが世界最高のビルで102階あった。その頃ワールド・トレード・センターの建っていた辺は大西洋から入ってくる大きな船の停泊するピアがハドソン川にあったため古いビルや倉庫が建ち並んだ暗いところだった。だから1人では決して行ってはいけないと言われていた。私はチェンバー通りのロフトに住みブロードウェイ29番でアルバイトをしていたからワールド・トレード・センターの建つ前の周辺を良く知っていた。だからワールド・トレード・センターの高い2本のビル即ちツインビルが出来てからのロウアー・マンハッタンの有様に驚いたものだった。ワールド・トレード・センターを建てるために出た土や岩でハドソン川を埋め立ててできたバタリー・パーク・ウエストと呼ばれる公園をR夫妻は毎日走る。

 私は気ままにその辺を散歩する。前に自由の女神を見ながら。左手にバタリー・パーク・シティーに新しく建ったグラス張りの高いビルに朝日が赤く反射するのを見ながらワールド・トレード・センターの前に出る。たくさんのビジネスマンが機械仕掛けのようにワールド・トレード・センターの入り口の廻転ドアに呑み込まれていく。私は私は高いシュロの木が育つガラス張りのウインター・ガーデンの中で買ってきたコーヒーをひとり飲む。目の前のヨットハーバーにはヨーロッパからの美しいヨットが停泊している。帰りはワールド・トレード・センターのビル群に囲まれた広場で雲にとどくツインビルの高さを確かめたあとワールド・トレード・センターが面しているチャーチ通りの朝市で果物を買う。帰ると友人の夫のイーフロムの作ったブルーベリー入りのワッフルの朝食をワールド・トレード・センターの見える食堂で食べる。私のニューヨークでの1日は朝焼けのワールド・トレード・センターではじまり夜景のワールド・トレード・センターで終わるのであった。ワールド・トレード・センターの消えたニューヨークを私はいまだに信じられないでいる。

       

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