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逃亡者カラヴァッジョの教え(湾岸戦争PART 2 篇)/朱雀正道

 庭園美術館で、ぼくはカラヴァッジョを見た。カラヴァッジョ、とんでもない才能。いったいなんでまたあの時代にあんなすごい絵が描けたんだろう。まるで現代に生きてるみたいだ。強い光と深い闇のコントラストのなかで構成されるその劇。恐るべき眼の力。しかもどの絵にも、ふるえるような精神がみなぎっていて。『ナルキッソス』にぼくはぞっこんになったけど、ここでは別の絵を想起してみよう。ボロな聖衣を着てひざまずき、傾いた十字架に身を寄せ、足下には髑髏が描かれた、あの絵を・・・・・・。

 ルネッサンスなんて呼ばれもするあの時代は、ローマカトリックがなりふりかまわず免罪符を売り出し、宗教関係者たちが性的に奔放だったこともばれ顰蹙をかっていたものだから、それに憤ったマルティン・ルターたちがプロテスタントを立ち上げた。そんな勝手なことをされてはたまらないとばかり、ローマカトリック側は反宗教改革を企てる。時代はまさに混迷のなかにあり、そんな構図の中にカラヴァッジョの仕事はある。

 カラヴァッジョ自身の精神も、はげしい揺れのなかにあって。ローマのアイドルにして、枢機卿たちのお気に入り、しかも教皇の肖像さえ描いたこの男は、その首に賞金さえ賭けられたお尋ね者の殺人犯なのですから。(しかもその殺人ときたら、どうやらついかっとなってやってしまったというような、しょうもない殺人みたいなんですから。いやはや)。「本日絞首刑、四つ裂き、撲殺あり」なんていう公開処刑が、毎日毎日行われたあの時代ですから、もうびくびくもんです。彼の作品のなかには、切り落とされた首をもつ男の主題がたくさんあって、そのなかには彼自身の顔もあるんですけれど、それはもう逃亡者の不安と葛藤の賜物でもあるんですね。あぁ、カラヴァッジョ、彼こそは激しい内面の葛藤を抱え込んだ最初の近代人、絵画史のハムレットだとおもえてきます。(あの野蛮きわまりないルネッサンスが近代だったなんて、ちっともおもわないけれど)。

 さて、ここから先は、いわずもがなの余談というか、飛躍したヨタ話ですけれど・・・・・。その後の例の戦争報道を見ていると、じつに〈アメリカ的悪〉対〈イスラム原理主義過激派的悪〉の構図に見えてきて、〈正しさをめぐる思考〉そのものが爆撃されていることを感じます。もちろんジョージ・ブッシュなら〈全世界的見地に立ってロスをいかに抑えるか〉という点で自らを〈善〉と考えるだろうけれど、ほとんどカネの力にモノを言わせて世界中を植民地化せんばかりの勢いのアメリカ独り勝ち政策は、どう考えても〈善〉とはいえないだろう。他方、オサマ・ビンラディンの原理のためなら死も辞さずという姿勢がシンパ以外のものにとって〈善〉であるはずもありません。

 今回の「戦争」は、湾岸戦争PART2などとも言われていますが,おもえばPART1のときには、あの当時、ベルリンの壁が壊れ、ソビエト連邦が瓦解しこのままでいけば世界中は、一方ではさまざまな局地戦、他方では世界の分極化(ブロック化)による覇権争いとバランスゲームの泥試合になると目され、せめて最低限、近代の基本的ルールだけはもう一度おさえておこうという倫理的選択が、日本の知識人のあいだにもありました。たとえば『モダニズムのハードコア』などの仕事も、そんな見晴らしのなかにあって。そこでは近代がようやくテイクオフしたかにも見えた第二次世界大戦後、いかにアメリカが芸術の覇権を奪取したかが理論的に精緻にトレースされ、その限界と展望までが透明に語られていました。

 いま、わたしたちは湾岸戦争PART2のただなかにあり、おもいもかけない方角から、モダン(近代)の底がぬけてしまったことを感じないわけにはいきません。いわば自分の家の上にいつミサイルが落ちてくるかわからない、飛行機に乗ればいつハイジャックされるかわからない、誰かから届いたラブレターのなかに炭疸菌が忍んいるかわからない、ついでながら、ハンバーガーやラーメンを口にするときすら、やがて訪れうる自分の脳のスポンジ化を怖れなければならない・・・・・。考えてみれば、モダンというこの未完の、進行形の、前進する時間は、〈他者への信用=システムへの信用〉が共有されてはじめて成り立っていたものなのでした。いま、その信用そのものが危機にさらされています、さまざまな「悪」のパワーゲームのなかで、望むと望まざるとに関わらず、自分もまたささやかなささやかな「悪」として組み込まれ・・・・・。おっと、カラヴァッジョの話から、ずいぶん遠くまで来てしまいましたね。堕落したローマカトリックをクライアントに、教皇の肖像画さえ描いた、ちんけな殺人犯、カラヴァッジョ。追っ手を怖れ、絞首刑を、四つ裂きを、撲殺を怖れながら逃亡したカラヴァッジョ、彼の精神のなんとモダンなことでしょう。おそらく彼は、自分の正義を微塵も信じなかったでしょうから。(いや、自分勝手に信じていたとしても)。

 いや、そんなふうにカラヴァッジョをだしにしてしまっては、申し訳がありません。ぼくはいま、おもいだします。あの『ナルキッソス』の圧倒的な美しさを。栗色の髪の青年は美しい横顔を見せ、暗がりのなかで水面を見つめていて。画面中心のまるい膝小僧、地面につけられたたくましい右手、わずかに水面に触れる左手。その暗い水面には、ほのかに彼自身の美しい顔が揺れていて。彼の背後の闇に、血なまぐさい争いの数々があったことをおもえば、ナルキッソスの横顔もいや増して美しく見えようというものです。しかもその描き手が、恐るべき眼力をそなえた、気の短い、怒りっぽい、犯罪さえ犯してしまうろくでなしであるなら、なおのことです。すべてのカラヴァッジョの作品は、心のなかに悪を宿し、逃亡する芸術家にさしだされたたわわな果実かもしれません。いま、扉をひらいて、まるっこい肩をだした少年が小首をかしげ、籠いっぱいの果実をさしだしています。

       

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