‘鏡の中の外’について/山田宴三
これらの作品を前にして、みなさまには、内省的な見方になって鑑賞していただく事を私は、望んでいます。たとえば、私自身の個性や精神状態を作品から分析するというようなことはなさらずにしていただきたいのです。そうでなければ、この作品の真意が伝わらないと考えているからです。
これらの作品は、和紙、墨、胡粉(貝から作った白)、アクリルのメデユームを使用し、まだらのウォッシュの技法を応用して描かれています。それらの素材は、今まで慣れ親しんだもので、特にこれらのものを必ず使わなければならないものではありません。(もちろん、それらでしか出来得ないものではあるのですが)それによって作り出される形態や明暗、それぞれの素材の持つ色と素材感の違い、それらが自ら創り出す表情ができあがります。もちろん私もそこに介在するのですが、あくまで私は、媒介、橋渡しの役割であり、多くが偶然から出来上がってくるのです。
そうして出来上がった作品は、ちょうど壁のシミのようなものが出来上がります。わたしたちは、幼い頃、壁のシミや汚れの中に人や動物、風景などをよく見るものです。人や動物のような具体的なものでなくても、形態や空間、ある種の雰囲気や気分、非現実的な夢のようなものでもかまわないのです。シミの中に様々なまとまりのある形態あるいは空間を見いだしていただきたいのです。こういったものを静かにこれらの作品から感じ取っていただくことが、ここで言う内省的な見方になるということなのです。しかし、これらの作品のテーマは、ここから先にあるのです。
フーコーの「言葉と物」序の中に、ボルへスのテクストの引用の引用があります。それは、「シナのある百科事典」というものなのですが、そこにはこの様なことが書かれています。「動物は次のごとく分けられる。(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、(c)飼いならされたもの、(d)乳のみ豚、(e)人魚、(f)お話に出てくるもの、(g)放し飼いの犬、(h)この分類自体に含まれるもの、(i)気違いのように騒ぐもの、 (j)算えきれぬもの、(k)らくだの毛のごとく細い毛筆で描かれたもの、(1)その他、(m)いましがた壷をこわしたもの、(n)とおくから蝿のように見えるもの。」ということが書かれています。
フーコーは、笑わされると同時に当惑させられたと言っています。その理由は、この様に書いてあります「それらの物を収容しうるひとつの空間を見いだすことも、物それぞれのしたにある《共通の場》を規定することも、ひとしく不可能だという意味である。」そしてそのことを《混在的なもの》と呼んでいます。
この百科事典の分類のしかたは(h)以外はいかに奇妙に感じられようと分類可能なはずだと考えられます。しかし(h)はこの分類の中にはいることは出来ないはずなのです。なぜなら、(h)=この分類の中に含まれるもの=(h)以外のアルファベットだからです。学校のクラスと、その生徒を例として考えてみましょう。ある学年のA組を(h)だとすると、B組が(a)C組が(b)・・・の様にはならないのです。(h)以外の(a)〜(n)はA組の中の一人一人の生徒(a)君、(b)君、(c)君にあたるはずです。ところが、そのA組の中に「A組」君がいるのです。(h)=A組であり、その他の(a)〜(n)は、そのA組というクラスの生徒にあたるはずです。クラスの中に生徒ではなくクラスが入り込んでいることになるのです。(図)参照 このことがフーコーを笑わせ、当惑させ、《混在的なもの》と呼ばせたものではないでしょうか。
私の作品もこの「シナのある百科事典」のような構造をしています。そのきっかけになったものは、古い中国、日本の絵画にしばしば見られるものからです。それは、画面の中心部分、たとえば、人物、顔、動物などが外隈などの技法によって塗り残される事で表現されているものから来ています。学生以来、私はその表現方法に言いようのない魅力を覚えてきました。三次元的な空間とはまた違った空間、あるいは奥行きを感じるのです。
その塗り残しの表現と「シナのある百科事典」には共通したところがあると思います。その塗り残された部分は、本来様々な要素を支えるはずの支持体がその一要素として画面上に登場してきます。これは学校のA組が、クラスの中に入り込んで「A組君」になること、つまり、「シナのある百科事典」の中に分類(h)が入り込むことと同じになります。
私の作品の構造は、鑑賞者の「内側」として映し出された形態や空間が画面上の様々な要素から構成されます。ところがその中の要素に支持体がはがされて出来た要素が含まれています。これは「シナのある百科事典」の分類(h)や塗り残しの表現にあたります。古い中国や日本の絵画に見られる塗り残された表現と同じように支持体が表現の一部になります。ここに《混在的なもの》が生じてくるはずです。
同時に、この《混在的なもの》を二重構造にしました。それは、その《混在的なもの》を安定したものではなく括抗させることで、不安定な構造を作り上げ絶えず揺らいでいるような複雑な空間を作りたいからです。もう一つの構造にはドットを使うことにしました。それは、一つ以外のドットはどのような形であれ、画面の上に具体的に描かれているのですが、一つだけ絵の具を剥がすことで描かれています。このことは前の構造と基本的に同じものです。
絵画空間は、前景−中景−後景の各プランの秩序を互換性のあるものに変換してきました。それと同じ構造が私の作品にも当てはまります。すなわち、作品の中の各要素から鑑賞者の意識によって形態やイメージなどが、主景として生じてきます。そして、二重構造の不安定さと意識の揺らぎによって、主景の入れ替わりが起こります。そのことは、その都度前景や後景が中景として立ち現れることを意味します。それは、前景−中景−後景の各プランの秩序が、鑑賞者の関心の働きによって、たとえば、それまで地として意識に登っていなかった要素と要素が組み合わされて主景として形態を現すというように、後景が中景として立ち現れたりします。このように、鑑賞者の意識の働きによって前景−中景−後景の各プランの秩序が互換性のあるものに変換することと同義になるわけです。
そして、そこにも支持体もその要素として参加することになります。支持体が前景や後景になったり、あるいは、中景や中景を形成する要素になったりするのです。つまり、《共通の場》である支持体とその要素である作品の表情に差異あるいは同化が生じます。《共通の場》である支持体が前景−中景−後景の各プランの互換性に参入し絵画空間の一要素になるのです。このことは、支持体をプランの互換性に参入させ、支持体、あるいは《共通の場》を絵画空間にまで拡張し、《混在的なもの》を対象としてではなく構造的に絵画空間化することを意味しているのです。
画面上の各要素に《共通の場》である支持体を参入させることによって、本来同一の次元にあるはずのない《共通の場》=支持体とその要素を絵画空間化することは、それらの絶対的な差異、その距離を奪うことになります。ここにハイデガーの言う「距離を奪うことによって遠さを保持する」という三次元空間のイリュージョンとは違った、人間存在から来る「奥行き」を発見することとなるのです。
この「距離を奪われたもの」とは《共通の場》とその要素との「関係性」という普段私たちが意識することのないものです。この「関係性」が、絵画空間を構成することになるのです。私たちは、作品を前にして、この「奥行き」を生きることが出来るはずなのです。抑圧されねばならないものを含むこの体験は、自分の生きているこの世界に対する根元的な不安を投げかけるのです。フーコーのように当惑されながらも笑っていただければ幸いです。
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