「男の子は戦争が好き」-村上隆展を見て-/朱雀正道
1, はばかりながら、私達だって近代人だ。けれども、その<近代性>には、西ヨーロッパ〜アメリカWASPのそれとは異なった文脈がある。いいえ、すでに私達自身が、その2つの文脈の間に生まれた私生児なんだ。一方にはそんあ認識がある。
2, そして他方にニッポン国内において、「現代美術」「日本画」というようなドメスティックなたこつぼ
群の中にとどまっていては、どんな表現を送り出したところで、その外側の社会全体にはまったくメッセージが届かないのではないか、という危機意識があって。
3, そんな困難な意識をもって、あたりをそっと見わたしてみると。-いわゆるサブ・カルチュアのフィールドにはアニメやフィギュアなど、ほとんど<世界。なんてものには背を向け。自らのイマジネルなリビドー的なナルシス的な世界の中に、自閉しているかに見えながら、そのまれなる禁止なきかのデタラメな自由とすぐれた工芸的完成度において事後的に(!)、大変な国際性を有しているジャンルがある。
4, そこで村上さんは、対アメリカ的には、モダン〜コンテンポラリーアートの舞台に、日本画〜オタクカルチュア〜ハイテクの連合艦隊をぶつけていきます。そして国内的には、良きオタクの兄貴としつ、そして種々のたこつば的美術村々の横断的改革者として振る舞っておられます。その誠に全方向的に構成された戦略体系はクリアで、また作品の仕上がりも大変に工芸的精度を有しています。あえて、おおざっぱに言えば三宅一生やYMOと同様の問題設定が、いまアートの戦略として機能仕始めたと言えるでしょう。何をやっても事件にならない我が国の芸術シーンで、作品が事件として機能している、ただそのことだけでも大変めずらしい達成と言えるでしょう。
5, この、すぐれた達成の中でおそらくひとつだけ答えることのできない難しい問題が残されているとすれば、<芸術表現にとって作り手とは、他ならないこの私とは何か?>という近代誕生以来の問いでしょう。
6, かつてアンディ・ウォーホルは、意図的に主体性をカッコにくくり、いわば消費社会の神話とそのイコノロジーに身を寄せることによって、それまでの芸術家、その「特権的個人」という神話のベールをはがしてみせました。けれどもそれも今となっては、ひとつの芸術家神話(主体性の神話を反転したという神話)に、程良くおさまってしまいました。そう考えるとおそらく、アンディ・ウォーホルの仕事には未だにさまざまな可能性が有されていると思いますが、その<主体性の反転>というアノロニーそのものは、すでにすっかりすりきれています。
7, あなたは、そう、他ならないこのあなたは、なぜ、どういう理由でアーティストなのですか?
そしてそれは社会とどういった関係を切り結んでいるとあなたは考えているのですか?
そう、近代以降の古くて新しい問いが、そこにあり、もちろんその問いにたった一つの正解などあるはずがありません。ただひたすら問いと向き合い、身をひるがえし、何かを示し続けていく運動があるばかりです。
8, それにしても−。男の子は戦争が好き。ふと、僕は歌の歌詞のように、そんなことを思います。
では、女の子の好きなことは?着せかえ人形遊び?それとも愛?あれ?いつの間にか森万里子論のドアが
開いてしまいましたね。それはまたあらためて-。
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