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そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。/朱雀正道

 メディアからは、大変だ大変だという声がきこえてくるけれど、仮に自分が芸術家だとして(!)、ゴヤのように、ピカソのように、あるいはキャパのようにふるまえないのは、かならずしも才能にへだたりがあるとか、倫理観や勇気がたりないだけではなく、これはもう仕方のないことだと思う。仮に今おこっていることが戦争だとして、それは人間による戦争ではなく、目に触れるものはといえば、情報ばかりの「戦争」なのだから。

 たとえばメディアは、ブッシュが、これは戦争ではない、自由主義を、民主主義をおびやかす悪にたいする正義のための報復なのだ、といっているらしいことになっている。同時に、(幸いにも)他のメディアはそっとつたえる、今も昔もブッシュにはオイルマネーがたっぷりと流れこんでいて、たとえば最近ならばアフガニスタンの石油をねらっていて、パイプラインを作りつつあるのだけれど、それにあたってはどうしてもアフガンを通らなくてはならず、ビン・ラディンのせいで、計画は棚上げのままだとかいわれていたり。ましてやここ数ヶ月のようにアメリカ経済が一気にドツボに落ち込んでゆくほかないとすれば、もはや最期の切り札、戦争をやるしかないとおもったとしても不思議はないだろう、とかいわれていたり。(そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない)他方は、ビン・ラディンには、かつてCIAからたっぷりとカネが流れていたそうな、とか。(そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない)。

 しかたがないよね、マスコミはいまや、記者クラブや通信社から情報を買うばかりで、自分の仕入れたネタじゃないものね。いやいや、情報なんて、そんなものさ。〈誰が、なんのために〉って視点がなくちゃ、使いようのないものだもの。

 『ニューズウィーク』は、アラブ側の欧米への憎しみを十字軍までさかのぼる必要はなし、この数十年の彼らの、逆境を見るだけでじゅうぶんだろうといっていて、それは、まぁ、正論かもしれないけれど。とはいえ、「世界史」では聖戦とかいわれもする十字軍が、どれだけ栄華を誇るイスラム文化に略奪と非道をおこなってきたかとおもいかえせば、いま伝えられてくる情報についての健全な評価保留もできようというものではないか。そう、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないのだ。それしかいえないではないか。

 美しい女を愛するように平和を愛したキャパが好きだ。やる気満々に『ゲルニカ』をしあげたピカソをいとおしいとさえおもう。だが、人間が戦争をする時代は去り、わたしたちの目の前には、ただ情報があるばかりなのだ。情報には、すべて、目的がひそんでいて、多種多様の情報とその裏にかくされている誰かの目的が網の目のようにからまっていて、わたしたちはその中から瞬時に真実をつかみとるほどに聡明であることはできないのだ。危機はけっして抽象的なものではなく、そのようなものとしてのみ、具体的なものとしてある。

 いま、ぼくの机の上に、エドワード・W・サイードの『イスラム報道』(みすず書房)やどこかのアラブ人が書いた『アラブが見た十字軍』(ちくま学芸文庫)がある。でも、ぼくは、きっと、それらをたんねんには読まないだろう。ぼくは、自分のささやかな仕事をしたり、愛する女を愛したり、友達と、ビールを飲んだり、食事をしたりするだろう。マティスのように?いやいや、とんでもない、ただひたすらささやかなささやかな自分のように。はたしてぼくは、じゅうぶんに芸術家だろうか?そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。いや、そもそもそんなことは他人が決めればいいことなのだ。そしてもちろん問題はそんなところにはない。
       

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