溶ける都市、あるいは芸術家のトポス/大貫憲一郎
私たちが生きて来た二十世紀の「都市と芸術」を語るに於て格好のテキストはフリッツ・ラングの「メトロポリス」だろう。高層建築を貫く高速道路とモノレール。これらが作るスカイラインは、二十世紀初頭のメタファーとしてのユートピアを見せている。
しかし物語には作者テア・フォン・ハウボウによって巧妙なダブルイメージが仕掛けられているのだ。「メトロポリス」は住民までをも都市装置の中に組み込んでいる。まず一つのイメージはピラミッド型の都市の構造であり、それはマンダラ的でもある。マンハッタニズムと言うべき世界再創造が開始される。もう一つは二十世紀の階級構造である。地下深く生活する1181号と支配者フレデルセンとは資本家と労働者と言う関係が成立している。より多くの富みの集中を目論むフレデルセンは二十四時間不満も言わずに働くロボットの製作を意図する。(ここに「科学」の怪しさが見えて來るではないか)ロボット登場後、労働者は悲しくもロボットの「餌」にすぎないのである。二十世紀が揺籃期を過ぎ新たな価値を求めて騒乱期を迎へ、そして枠組みが再構成されると「近代」が見直されて行く。二十世紀が爛熟期になると全てのシステムに欠落が目立ち始め、狂いが生じて来た。この時代では作家もまた、自分たちが生み出して来た「文化」と言う鵺ヌエの餌になっていたのではないだろうか。
だが1181号ゲオルギィーは「メトロポリス」破戒へと立ち向かう。それもたまたま迷い込んだ屋上で遭った美女マリアを求めて。時代が停滞し、価値が縮小再生産され、危機と変革が叫ばれている今、作家もまた美しいマリア=パラダイムを求めて動き出さなければならない淵に立っているのだ。歴史に都市が誕生して以降、都市は巨大な孵化器(インキュベーター)だった。その温もりの中で、芸術家が生まれ文化が創造されて来た。断るまでもないが、政治や宗教や富はインキュベーターの動力であり、熱源である。だが芸術は或る秩序の中にあっても、万人の理解可能な提起された概念の固定化ではなく、むしろ新たなヴィジョン(視線)でもって再構成されて来たのではないだろうか。
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