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2001年7月15日(日)京橋プラザ区民館                                            

等伯 ― 松林図屏風の空間をめぐって

[MASC]分科会 <日本の空間 ― 基調報告> 芝 章文


 はじめての分科会ということで、前回定例会で話された「不在の中心」というテーマを背景としながら、今回長谷川等伯の作品、国宝松林図屏風を題材にして、日本の空間について、またその空間から導き出される意味や考え方に焦点をあてながら基調報告をしたいと思います。

 日本の美術を語るうえで、はずすことのできない、まずはこのレジュメにもあるとおり、中国山水画の歴史をさらっと追って、話をすすめていきたいと思います。オリエント(東方、東洋)という言葉がありますが、これは、たとえばオリエンテーリング、オリエンテーションなど、ガイダンスと同じような意味合いで使われ、案内や宝探しなど、方向づけという意味をもって使用されています。オリエントとは西洋から見た東の方向、「太陽の昇るところ」というのがもとの意味らしいのですが。そして東方は単なる方角の意味のみならず「未知なるところ」という意味を示していたようです。もともとオリエントは西洋人にとって中近東あたりを指し、我々の日本などは東の果て、極東と呼ばれます。彼等西洋人にとって極東アジアはまさに未知の太陽の昇るところであったというわけです。

■中国山水画の歴史

 現在見ることのできる最古の絵画遺品は楚の時代(紀元前4世紀〜3世紀)の帛画(はくが)=絹に描いた絵で、墨の輪郭線のみの簡単なものである。
 魏・晋・南北朝時代(220〜589年)の[顧 ガイ之](文人画、山水画の祖と呼ばれた)が中国最初のまとまった画論をあらわす。『論画』
 [宗炳]=若いころに登った山々の風景を部屋の壁面に描いて「臥遊」(寝たまま山に遊ぶ)と称したところから 山水画が始まったとされる。
 『古画品録』に理想的な制作態度として6つの要点をまとめた「画の六法」をあらわす。
 6、伝模移写 → 古画を模写して勉強しているか
 絵画はたんなる写実ではなく気韻がなくてはならない。といった中国絵画の伝統的な理想がこの頃形作られる。
 黄氏体→花鳥画 入念な観察にもとづき細密な描写と華麗な色彩を特徴とする。→北宋画院の院体花鳥画の模範となる。
 華北→高く聳える険しい山を描いた。

◎北宋水墨画の完成 (960〜1127年)

 五代十国時代の花鳥画と山水画をさらに洗練させ宮廷画家の制度を確立(画院)。→院体
 三遠法=中国山水画の基本的構図法[郭煕](かっき)によって完成される。水墨山水画論『林泉高致集』
◆高遠= 仰視  ――― 山の麓から頂上を見上げるような山の高さの表現
 最も古い表現
◆平遠=水平視  ――― 山上から遠方の山々を見晴らすような広さの表現
 唐代に現れた表現
◆深遠=俯瞰視  ――― 山々の谷間のさきをのぞき見るような奥深さの表現
 南宋の院体に現れる

北宋末期の韓拙(かんせつ)六遠画法は三遠につぎの三法を加える
◆闊遠= ――― 近い岸の向こうの広い水や空間の彼方に遠山が見えるような表現
◆迷遠= ――― 煙霧が立ち込め野水の彼方がぼんやりして見えないような表現
◆幽遠= ――― 景物がなくてはるかひろびろとみえるような奥深く遠い表現

南宋の画院 馬遠、夏珪 (馬夏様式)
 馬遠→馬の一角、風景の一部、余白を多く残し無限の空間、余情と暗示。

◎日本に影響を与えた禅僧水墨画
[牧谿](もっけい)鎌倉〜室町のころ日本に輸入。精神修養と娯楽をかねて描いた。
大徳寺蔵(観音猿鶴図)など。
■等伯は牧谿の影響を強く受け、「枯木猿猴図」を描いた。また雪舟の門人等春の弟子でもあった


長谷川等伯(はせがわ とうはく)
(1539〜1610年)。安土桃山時代の画家。長谷川派の始祖。能登、(石川県七尾)生まれ。

 武士の生まれですが、染師の家の養子となり、染師の仕事をしながら、養父より絵もを学びました。妙成寺(みょうしょうじ)に当時の絵が残っています。32歳のとき京都に出て、狩野永徳の狩野派の門に入りました。51歳まで長きにわたりその修行に勤めましたが、狩野姓しか絵師の頭領になれないことを知り、狩野派を出ました。当時は、狩野派だけが絵師であったため、絵師の道を続けるため、大徳寺三玄院の襖絵(墨絵)を住職の留守の間に描くという冒険もしています。この絵が住職に認められ、その後各寺から襖絵の依頼を受け、ようやく絵師としての道を歩み始めました。
 大徳寺山門の天井画は特に色彩豊かなもので、それが千利休に認められ、利休の「美意識」を絵に具現化したのが長谷川等伯であるといわれました。その後、利休のつてで豊臣秀吉の仕事もしています(このとき狩野永徳は急死していて、その子で永徳を引継ぐ者がいなかった)。55歳の時でした。その後、北陸より息子、娘婿を呼んで長谷川派を創りました。しかし、息子の死とともに、水墨画に興味を持ち始め、雪舟に私淑し、雪舟の門人等春の弟子になり、水墨画を学びました。
 さらに南宋の牧渓(もくけい)に傾倒して独自の画風を繰り広げるようになりました。これは狩野派にはない画風で、心情を絵にする傾向に傾いていきました。しかし、長谷川等伯の死と共にこの画風は姿を消しました。 代表作に、水墨画の「松林図屏風」。「枯木猿猴図」。「山水図襖絵」。着色画の「桜楓図」。「仏涅槃図」(妙成寺)。相国寺の「竹林猿猴図屏風」は、著名な中国の「観音猿鶴図」にならって、寒々しく身を縮めた猿が陽光に包まれて遊ぶ猿の親子に変えて日本の風景を再現しています。

雪舟(せっしゅう)
 幼時、宝福寺で涙のネズミを描いた話は有名です。幼少の頃、京に上り、相国寺に入山し、禅の修業を積むかたわら、絵を周文に学びました。「雪舟」という号は寛正三年(1462)、元(げん)の楚石梵埼(そせきぼんき)の墨跡「雪舟」からヒントをえて号としたものです。その後、明(みん)国と交渉を続けていた周防国(山口県)の大名、大内教弘(のりひろ)を頼り、雲谷庵(うんこくあん)に身を寄せていましたが、応仁元年(1467)ついに遣明船(けんみんせん)に便乗して明国に行きました。寧波(にんぽう)では四明天童第一座に推され、北京では礼部院に壁画を描きました。
 文明元年(1469)帰国後、大分で天開図画楼(てんかいとがろう)を開き、同十年には益田七尾城主兼堯(かねたか)の招きにより益田を訪問し、崇観寺(現在の医光寺)5代目住職として数年間をすごしました。その間「益田兼堯寿像」、「山寺図」、「花鳥図屏風(びょうぶ)」を描き、崇観寺・萬福寺の両寺に山水庭を築きました。同十八年、名作「山水長巻」を制作し、明応四年(1495)には「破墨山水図」、翌年は「恵可断臂図(えかだんぴず)」を作りました。兼堯の死後、周防ヘ一時去りますが、晩年益田を再訪し、山寺東光寺(現在の大喜庵)に入山しました。本尊観世音菩薩の下で、画の制作に励んでいましたが、ついにこの地で八十七歳の生涯を終えました。


■松林図屏風のこと
◎雨関係のリアリズム ― 隠す様式の発明。

霧、 霞、 露、 霜、 靄、 雨、 雪、 雲、 雷、 震、 電、 霊、 霰、ets

世界最小言語の文学、俳句にみる間の空間。
一例として 高浜虚子=「 彼一語 我一語、秋深みかも 」
「間」という日本文花の特徴をよくよく考えてみると、それは隠すことであるともいえる。ものを削り落とすこと、要素を極力切り詰めること、それによってイメージのインフレーションがはじまるのだ。

◎アシンメトリーの美学
「ずらし」の問題。中心をさけてずらす。中心に間をとり中心を隠す。

竜安寺石庭の配置、  阿吽の呼吸、  茶の湯の伝統、  四畳半の半、  日光東照宮、 陽明門の逆さ柱、芭蕉の狂、  俳句の俳、  装飾と虚飾、  奇数の奇、  漫画の漫、

◎精神と墨の関係

◎表意文字としての東洋絵画

◎潮時の絵画  静かなる絵松林図

水墨 ― 墨のこと
音  ― 尺八、法竹
文字 ― 俳句
花  ― 華道
茶  ― 茶道

◎プラスのエネルギー、マイナスのエネルギー
 プラスとマイナスの志向の果てに現われてくるような静かなる絵、それが松林図である。

◎肉筆原画としてのリアリティー、アウラの問題。 絵画の現実性

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