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2003年5月8日(日)京橋プラザ

事業・運営について/勉強会<都市=廃墟>text「廃墟の美学」集英社新書


■事業・運営について
●前回定例会決定事項の確認・補足(会員名簿・運営計画表・決定事項プリント配付)

●4月28日運営会議による事業・運営計画の報告

●ワークショップについて

■勉強会


今回、生成と死が同時に進行する場として「都市=廃墟」と捉え谷川渥さんの「廃墟の美学」集英社新書 をテキストとした。

◆『廃墟の美学』 谷川渥著 集英社新書

先日横浜で催されたというシンポジウム<転位する日本画>
(このシンポジウムでは、この時期に開催された主な5つの展覧会に関わったキュレーターや作家たち、そして研究者や批評家を迎え四部構成で開催。)から、椹木氏の見解の引用などをからめながら、今回のテーマである「都市=廃墟」をキーワードに、今日の絵画、芸術の状況とあてはめ、論考していった。


死への親近と敵対たどる

 あの9月11日以来、世界には次々に新しい廃墟(はいきょ)が生まれ、人類の未来を悲観させている。しかしこうした暴力的な事態でなくとも、人間の手になる形成物は、いかに堅牢(けんろう)を誇ろうと、いずれは時間の力に侵食され、形を崩され、次第に消滅に近づいて行く。そのプロセスが、生の必然に関する複雑な感情と想像力を呼び起こし、そして想像力はさまざまなイメージに定着される。この本は主として西洋美術史の流れを通じて、そのイメージの具体的な表現を綿密にたどった労作である。

 著者はここで、廃墟の芸術表現を「静態」と「動態」に分けて考えている。前者は、はるかな理想的古代の建築の遺構が、牧歌的な空間に溶けこんでいるといった、クロード・ロランの絵を典型とする風景画の類、後者は、崩壊の予感に満ちた奇怪な建築が連なる、モンス・デジデリオの絵を典型とする悪夢のような情景。「静態」と「動態」の相違は、突きつめれば、「死」に対して人間が取る態度の、矛盾する二重性に帰せられるかもしれない。

 この本にも引かれている古典的な「廃墟」論で、哲学者のジンメルは、廃墟には独特な平安の気分が漂っている、それは人間の作った物が、時の移ろいにつれて自然の中に埋れて行くさまが、「母」への、故郷への回帰という印象を与えるからだといっている。つまり「死」との親近、和解である。これに対して、「死」をひたすら忌むべき生の敵対者として見る時は、廃墟はただ破局であり、まがまがしい終末をしか暗示していないことになる。その悪夢の窮極の表象を、著者は世界貿易センタービルの崩壊に見ている。これはもちろん芸術作品ではなく現実の事件である。しかしその区別を超えて、人間の想像力がどれほど狂暴に逸脱し、生と死の境界に奔放に割りこむかを、この本は豊富な例証によって示している。


とあるように、とくに9.11以降の芸術行為・美術状況はまさに廃虚ではないかという問いかけから、メディアの発達する現在の社会状況をより深く読みときながら、今後の芸術の在り方、また作家としてどうあるべきかを、論じていった。

*境界線のない現在について
*芸術行為は無効ではないか
*芸術の根拠、作品をつくることの根拠喪失について、また作家としての根拠とは

次回より、テーマである「都市=廃墟」をキーワードに各会員が毎回さらにテーマを搾って論議してゆく。

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