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2005年7月17日(日)京橋区民館

勉強会


前月に引き続き「絵画の準備を」二章とスライド上映が今回の勉強会の内容です。「絵画の準備を」二章は、一章の問題提起を歴史的角度から論じているようです。美術作品がそれ自体としてではなく、社会的、歴史的な言説に依存するようになってきた、『二十世紀の美術は経験というか起源の部分ではぜんぜん形式の展開はなくて、社会との折り合いでの戦略、中略、レディメイドがそれ自体として思考されるよりも、それが、もっぱらレディメイド」を要請する場との関係で思考されるようになってきた気がする。』(一章)この問題を、ワトキンを使って論じ、演劇=想起の要請と進んでいきます。

『デュシャンの「大ガラス」には、中略、観客の視線を少なくとも操作する、ないし手術するといってもいいような仕組みを組織することだという認識がある。だけど抽象表現主義が観客に開かれているというときはそうではない。中略、観客の自由な視覚の運動を受け容れる受動的な絵画というようないいかたの逆説的な保証でるかもしれない。一方でその絵画作品の多様性は、作品そのものではなく、それを見るさまざまな観客たちが持っているだろうと無条件に前提される、視点の多数性に依存してしまっている。その二つの欺瞞がそのなかにある。中略、作品ではなく、観客たちの多様性、個性が優先する。それをフリードは演劇的モデルといおうとしたのかな。』(一章)

フリードはドナルド・ジャッドなどのミニマリズムを批判して『リテラリズムの感性は、演劇的である。』(芸術と客体性)といっています。ミニマリズムは、クレメント・グリンバーグの問題設定、つまり図と図、部分と部分との関係、組み合わせで成り立つような作品は、伝統的なコンベンションであるということで、それを乗り越えようとしました。結果、内部の形態を排除し外部のフレームだけを物体として提示することになりました。それに対してフリードは、このようなリテラルな作品(ミニマリズム)は、あらかじめあるもの依存している、観衆依存だと批判します。壁に掛ければ絵画になるということは制度の問題であり、ミニマリズムが乗り越えるはずだった伝統的なコンベンションに依存することになってしまうということです。これに対してこの二章では。

演劇とは、想起の要請であり、不在としての原風景、欠如として与えられたオリジンを模倣することであり、ルネサンスの頃、現実を演劇としてみるモデル(現実を何々の再演として見ることで現実は発見される)が普及しはじめる。そこにそこには、一致しない複数の場所や時への関心が芽生え、不可逆的な時間意識とそれに抵抗するものが同時に現れる、それは矛盾をもつ。そこで空間の一致、場所の一致そして場面の一致という三一致の法則によって、観客の今見ているという行為とそのなかで行われている行為の一致がはかられる。これは絵を見る行為が何かを思い起こすという遡行的にしか成り立たないことを意識しないと出てこない。遅れの意識がないとこのモデルは出てこない。絵画は、この遅れというものを表向きには隠蔽しているように設定されているが、むしろその遅れの生産の場面において成立する。その隠蔽の操作のひとつにジャンル論があった。これは、グリンバーグ・フリードにまで繋がっていく。ルネサンスの頃は、ジャンルのすみわけがうまくいかずパラディグマティックな空間(複数のまったく異なる系列のものを重ね合わせる)であった。観客は、見ている自分が多数に分裂してしまうような経験にさらされることによって、それが収束する架空の点が要請される。その完結しない要請が近代にかけて覆い隠されていって、グリンバーグ・フリードに行きつく。フリードはアブソープションとシアトリカリティ(例えば人物が描かれてある絵があって、その人物がこちらを向いているのがシアトリカリティ、画面の中に視線を向けているのがアブソープション)を分けていうけれど、それは成り立たない。そのいずれもが演劇的である、といっています。

スライドは、一章で、純粋視覚の不可能性、つまり視覚というものは、歴史に拘束された、与えられたものでしかない、モダニズムは純粋視覚の断念とそれを成り立たせるにはどうすればいいかという二重拘束があるという問題提起があり、クールベを中心に観客が作品に見出す視覚像と物質的な存在としての作品のズレにおいて想像的な次元で成立ものを確認しました。

(文:山田宴三)

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