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2005年9月18日(日)京橋プラザ

勉強会


「絵画の準備を」第5章が今回の勉強会のテーマです。「分裂していくもの」と「統合していくもの」について論じられています。まず、近代絵画の平面性に対しての懐疑に焦点が当てられます。

『平面性に代表されるような近代絵画の概念的な定位は、それ以前の絵画的伝統、簡単に言えば、そのイリュージョニズムとの対比によって明確にされることが多いわけですが、どうやらそれも疑わしい。』それでは、近代絵画の平面性とはどのようなものだといっているのでしょうか。

平面性に対して正確に対応するためには、写真のシャッターを押したら絵が一瞬にして出来上がるイメージ、カメラ・オブスクーラ+版画を刷るというような複製技術である。そして、瞬間的(無時間的)に完結したものとして絵画を見るというのは、絵をひとつの完結した物体として再生産することを意味している。それは、生産過程に結びついたところの観念であって、視覚現象と結びつくものではない。むしろ視覚を排除したときにこそそういう観念は成り立つ、といっています。そこであるから、写真が発明されるまでは、絵画の平面性という絵画像は作られえなかったともいっています。そして、『絵画を統合する概念として平面性を要請するとき、それはすでに描かれた作品から帰納的に抽出した概念であるのに、それが絵画という行為を発動させるためのア・プリオリな条件として、ほとんど一種の公理、手に触れられることが禁じられているような公理、ドグマとして設定されてしまうというところがある。』と現在の状況をいっています。

それでは、その帰納的に抽出されるものであり、ドグマとして設定されてしまうものとは違った「絵画を統合する概念」とはどのようなものでしょうか。ここではまずキュビズムが、一般的な見解とはことなり、ア・プリオリな平面性といかに矛盾するものかが述べられています。例えば、キュビズムは展開図のような作品を制作します。このような形態の変換は、サイコロの展開図を我々が描くときに様々な面から見る必要は無いように、視覚と呼ばれているものとは異なった認識がそこにはあるはずです。キュビズムの問題設定とは、『盲目の人間が三角形という概念や面積という概念をなぜ知ることができるのか。―中略―すなわち幾何学的形態とは感覚が向かう外界の具体的な知覚対象としてあるのではなくて、そんな外的対象と同じように、いくらでも動かしたり、組み立てなおしたり変形したりできる操作可能な対象として、頭のなかで組み立てられなければならない。そのことができてはじめて二次元や三次元という空間的区分も成立し、翻ってそんな空間的次元をこえて形態を変換することが理解可能になることもわかる。同じくピカソも、まったく知覚条件の違う者同士でも共有できる視覚像、その差異を越えて共有される視覚像はいかに可能かという問題にずいぶん早い時期から気づいていたのではないかって気がするんですね。』であり、キュビズムは、そのような非視覚的な概念への問題意識によって平面性が抽出され、画面が統合されたと考えていいのではないでしょうか。

つぎに、絵画は一般的に視覚芸術と考えられていますが、その視覚の芸術について考察していくと不可視性を前提にしない限り視覚という作用は発動されないという問題に行き着きます。その不可視の領域をここでは、「場」マトリックスと呼んでいます。それは、見たり、触ったりする前に前もって対象が生み出され、存在が生み出されてくる(捏造される)根源的な場だといっています。作家は、そこで対象を操作可能なものとして頭のなかで作り上げ、レトリック(様式)を駆使して、それを表現しようとします。そこから印象派の謎が生じてきます。

印象派以前は、描かれたものがどういうものかというサブテキストが存在していました。しかし印象派は、そのようなサブテキストを切断し、見る人の視覚に頼るため何が描かれているかを判別する保証がない。にもかかわらず、『外界の見かけを文字通り無反省的に描いただけだと同定されたのか。』ここに印象派の謎があるといっています。それは、今までの絵としてみようとしても落ち着く場所が無い、完結できない、対象にいきつけないことになってしまう。これを支える原理があるとすれば、バラバラに見えていいはずの印象派を空間的な配置からではなく、時間という尺度を要請せざるを得ないのではないかといっています。

このように結論が出ない、先送りされて行き着く場所が無いということの類似を本居宣長に見出します。荻生徂徠は、言語はドグマであり、それは、それを使う誰に対しても外在的な規範としてある。その言語を使おうとするかぎり、その規範に従わざるをえない。文字言語の統御則を会得するには音声言語は頼りにならない。ただひたすら見て、書くしかない。解釈してはいけない。言葉は必ずその言葉でしかいえないところのものをさしている。すなわち漢文を、勝手に訓読点をつけて解釈してはならない。ところが『宣長はそれをひっくり返して、漢文をわざわざ訓読点をつけて読みかえて、順序を替えなければならなかった事実にこそ日本語が音声言語としての一貫した体系たりえていることの証拠になっているという理屈にした。その場合意味なんていうことよりも重要なのは、あくまでも語ること、そういう順序ではなさなければならなかったというパフォーマティブな事実にこそある。』

同じようにモネにも外在的な規範を見出せません。『けれどモネではそれが成り立たない。モネを自明なものとして了解できるというのはいかなることなのか。それまでの絵画はいわゆる漢意的なものとしてあって、視覚言語として、とりあえず翻訳可能性が担保されているところがあった。しかしモネはそれを切断した、解釈可能性がなくなったわけです。あるのはただ自己反省的な身振り、パフォーマティブな継続性であり、筆触がそのつど作りだす視覚的なアヤでしかないでしょう。それはどこにも行きつかない。』そして、『ちょうど徂徠が遡行的に見出した、最終的に抹消できないドグマはテキストの物質性にこそあるようにと考えたように、絵画がひとつの表象体系として成立しうるのは、それが光と物質の特権的な結びつきとして成立しうつかどうかであるという問題に絞り込んでいった。いわば絵画の基盤、マトリックスを提示することにまで否応なく行きついてしまったわけですね。ところがモネは提示していない。しかも写真でもない、物質でもない。そこがモネの得体に知れないところで、ゆえに不安を喚起する。』

(文:山田宴三)

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