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2005年1月15日(日)新川区民館

勉強会


 今回は、レディー フォー ペインティング 誰がセザンヌを必要としているか(T)の「セザンヌの歪み」と「触覚値」について話し合いました。

 「セザンヌの歪み」について、テキストでは、絵画の視点の問題から平面性の問題が論じられています。私個人は、視点の問題のほうに興味はあったのですが話の流れが平面性のほうに流れていきました。平面性の問題は、この章の始まりの問題意識セザンヌの作品は、『むしろ、ア・プリオリなテーブルをあらかじめ前提にしたのではなく、むしろ、ア・プリオリなテーブルの不在といっていいような事態から自らの作品の制作を開始したという点にあるのではないでしょうか。』という問題意識を受けることになっているようです。

 ここでは、グリンバーグによるセザンヌの歪みの原因の説明として、画面の四つの縁から演繹的に制作したがゆえに平面性のア・プリオリな前提があるとして、その解釈を批判しています。四つの縁から演繹的に制作することと平面性のア・プリオリな前提との間には飛躍があるように思えますが、ここで視点の問題がからんでくるように思えます。作品とそれと対峙する鑑賞者の関係のア・プリオリな関係を崩すセザンヌの作品にこそ結果的に平面的といわざるをえなかったのであり、平面性が先立つ理念としてあったのではないといっています。

 「触覚値」ではおもにフォーマリズムについて話し合いました。われわれはおもにフォーマリズムをグリンバーグ流のものとして理解してきたが、それ以前にさまざまな人によるものでもあったこと。両者は、『ともに意味や内容よりも、純粋な視覚形式、可視的な形式として美術作品を評価する』というところが共通しているが、それと矛盾するはずの『平面性という絵画形式の純化をも主張するわけですね』というところに違いがあるということです。

 このあたりのことは本江邦夫さんの『絵画の行方』に詳しく言及されているとの指摘がメンバーからあり、次回参考にするかもしれません。

(文:山田宴三)

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