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2006年2月19日(日)府中市美術館 第9回美術館講座

勉強会(シンポジュウム報告)


今回の勉強会は、急遽府中美術館で行われた「ポストモダニズム以後」というテーマ、谷川渥、椹木野衣、本江邦夫氏らによるシンポジュウムに参加することになりました。以下はその要約です。

谷川さんの、今回のテーマである「ポストモダニズム」の説明から始まりました。谷川さんによると、この用語は、建築から出発した言葉である。モダン建築に対して「ラスベガスに学ぶ」(ロバート・ベンキューリ)において、風土、文化、を考慮することを提唱された。リオタールは、モダニズムは大きな物語であり、理性、テクノロジーへの信頼、マルクス主義に代表される人類全体のイデオロギーであるとした。それに対してリオタールは、このような近代の理念は失効したとして小さな物語を提唱した。アーサーダートは、「芸術終焉論」で美術史のモデルをリ・プレゼンテイションモデル(見たものの再現)というバザリー以来の美術史を否定し、エクスプロゼイショニストモデル(肉体の表現、表現主義モデル)に対して、表現というからには歴史の問題ではないとした。今後、芸術は制作されるとしてもその歴史の終焉を論じた。モダンアートのチャートでグリンバーグのパリとニューヨークをくっつけ、自己批判(振り分ける)、絵画性の追求というモダニズムに対して、そのようなものは通用しない。イズムからイズム、絵画の純粋性そのような芸術の物語性を否定した。芸術の役割(精神=ガイスト)は終わったとして、ヘーゲルの美学でも芸術の終焉を言っている。18c~19cに美術史は出発した。ビンケルマンが美術史の出発である。ビンケルマンは、ギリシャをその古典とし(そのギリシャが不在のモデルであったが)そこから生物学的モデルを参照して誕生した。シュミレーショニズムのシュミラルクルとは想定しているイデアが無いという意味である。また古代ギリシャが虚構かもしれないとも言っていました。

次に椹木さんは、あらかじめ用意した文章を読む形で発表しました。本江さんのテキストから「多幸感に支えられている」、「写像である」という二つの言葉で批判的に論じました。椹木さんはそのなかで、近代絵画が結びついている非絵画的のものを思考し続ける必要がある。問題にすべきは、人間の営みにとって余剰物である、人間にとっての世界の価値ではなく郷土である。絵画にはわかりにくいものがある。それは、不透明で全体が見渡せない不吉、強度である。写像には、神学的困難さが隠されている。イデアと物質界の対立から天地創造をそのつど反復するものこそ要である。プラトン(ディマイオス)の無からの創造ではなく、天上界の不変のイデアを見て、足元に変化するものを見て、これを手技によって一体化させる。手技による物質との格闘と透明な理性による浸透、そこに悪の理由、写像とはディスとーションを含むものである。そのなかに永遠なるイデアが入っていなければならない、しかし、その中にディスとーションの葛藤なり、またそれゆえに不吉であり強度がある。すべてを見尽くせない不純なものがある。

この後、三人の討議に入りました。本江さんは、絵画には意味がある、神学、近代=写像という考えが成立する。イデアルなものを目指そう!ここには誤差が生じる。モダニズムの揺らぎ=ポストモダンである。谷川さんは、絵画は古くから写像論(メタファー)であるがメトミニー、つまり、行為の痕跡としてみとめよう!椹木さんは、写真において表されるものは、イデア、ロゴスが介在されない機械的なもの、亡霊的な染み出し、反復(さかのぼる本質の無いもの)である。

その他、強度について、海外の日本の評価についてなどが討議されました。作品に対する価値判断と強度について谷川さんと椹木さんの二人の基本的な考えの差異と価値判断の違いに興味深いものを感じました。

(文:山田宴三)

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