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2006年3月19日(日)京橋プラザ

勉強会


前々回、「レディー・フォー・ペインティング」「誰がセザンヌを必要としているか(1)」「セザンヌの歪み」で本江さんの「絵画の行方」との関連する部分があり比較して検討してみたいと小松崎さんからの提案がありました。そこで、その中の「絵画の平面性について」の章を中心にして勉強会を進めました。また、前回府中美術館でおこなわれたシンポジュームでたまたまこの「絵画の平面性について」が取り上げられ議論されたこともあり偶然、時期にかなったものとなりました。

テキストの冒頭で、わが国では絵画のことをいつからか「平面」と呼ぶようになったのか、その絵画の平面性についての問いから出発しています。そしてその起源を古代ギリシア、プラトンあたりからと論じ、ミメーシスの観点から考察して絵画=写像論へと論を展開していきます。

そこで「平面」と呼ぶことから議論が進みました。メンバーの記憶では'70年後半位から、その言葉は使われ始めたのではないかと意見が出されました。テキストでも触れられていましたが、日本では、コンクールなど作品の分類の仕方にまで浸透しているのに対して、欧米諸国では絵画は、ペインティングと呼ばれ、平面というような言葉は使われていないようです。そこには日本と欧米諸国との絵画観の違いが覗われるのではないか、そもそも欧米諸国の絵画観にはこの平面性なる概念がどれほどあるのか疑わしい、という意見が出ました。

次にイデア、写像について問題に移りました。ここの部分は、府中市立美術館のシンポジュウムで谷川さん、椹木さんが批判していたところでもあり、この勉強会でも二人の批判と同調する形で進んでいきました。しかし、プラトン=ソクラテスではないけれど、自分がイデアや、その他の概念について無知であることに気づかされたことも事実です。その後、そのような批判にもかかわらず本江さんがイデアを持ち出すことに興味を持ちました。

最後に崩し君の超高速撮影をテーマにしたテレビ放送の録画を鑑賞しました。日常では見ることのできない視覚的無意識を超高速撮影で見ることができました。

次回からの勉強会は少し形を変えたいと思います。引き続き「レディー・・・」をテーマにやっていくのですが、大橋さんからの提案で、「レディー・・・」のテーマを自然科学の方向からアプローチしてみてはどうかということで、「脳は絵をどのように理解するか」ロバート・L・ソルソ著、新曜社を平行してやっていくことにしました。また、西尾君から、やはり最近のテーマに関係あるのではということで、Stain Brakhageの映像作品を上映する提案がありました。いくつか見て面白いと感じたのでこの上映会も平行してやっていきたいと思います。

Stain Brakhageはこのように言っています。「想像してみよう、人が作った遠近法の法則などに支配されない眼を。構図の理論なんて先入観を持たない眼を。物の名前にただ反応するのではなく、生の中で出会うものたちを知覚の冒険を通して知っていく眼を。"緑色"なんて知らずに這っている赤ん坊の目には草の上にどれほど多くの色があることか。何も教え込まれていない眼に光はどれほど多彩な虹を作り出すことか。・・・いったん視覚が得られると、眼は人間のどの期間より雄弁にイノセンスの喪失を反映し、眼はたちまちに視界の分類を学び取り、眼は見る力を次第に失うことで死へと向かいゆく人間のうごきを鏡のように映し出す。・・・」

そこで、これからはビデオ上映、「脳は絵をどのように理解するか」、「レディー・フォー・ペインティング」の順で大きく三部構成でおこなうことにしました。次回四月十六日は、Stain Brakhageの「ANTICIPATION OF THE NIGHT」 夜への前ぶれ 1958年この作品は、その後さまざまな映像表現に引用された作品のようです。この上映を一時十分からおこない、次に、「脳は・・・」の準備としてコピーの配布をおこないたいと思います。この「脳は・・・」は次々回から第一章を飛ばして第二章から一章ずつおこないと思います。そして、いつものように「レディー・・・」にうつっていきたいと思います。

(文:山田宴三)

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