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2006年8月16日(日)京橋プラザ

勉強会


 今回の勉強会はスタン・ブラッケイジ「The Act of Seeing with one's own eyes」の上映、「脳は絵をどのように理解するか」第4章「視覚的認知」、「レディー・フォーペインティング」6誰がセザンヌを必要としているか(T)「正当性の原理」を読みました。

 ブラッケイジの「The Act of Seeing with one's own eyes」は、検死解剖をあつかった映像でした。「脳は絵をどのように理解するか」第四章「視覚的認知」では、前々回に問題になった「シュールレアリズムを左脳で理解する」という箇所に対して、オギュスタン・ベルク「空間の日本文化」から「角田理論」による日本語の音韻構造によって脳の半球をそれぞれ異なる左右の機能を持つあり方がその他の言語を母国語とする人々と違っているという研究があり、そのことがシュールリアリズムを左脳で理解するという「我々の違和感」の理由になるのではないかということであった。本論の第4章では、二十年ほど前我が国で認識論が流行した、そのとき結局解決しなかった問題(トップダウンとボトムアップ)の対立を知覚心理学ではどの様に考えられているのかがもっとも興味深いテーマであるだろう。ここでは、人間の視覚的認知を理解するためには、三つの段階を考える必要があり、第一、第二段階まではボトムアップで第三段階がトップダウンであるといっている。つまり、本文に「感覚過程の異なる部分を扱っていると考えた方がいいかもしれない。」といているようにある種の折衷論であり、ここまでは以前と変わらない地点にあるようである。

 「正当性の原理」では、主にこの正当性の原理という言葉の意味するところは何かという問題主な論点となった。「レアリザシオン」や正当性の美術史などとの関連が議論された。ここでは「市場で流通している絵画、芸術作品という事物の原理と、芸術理論上で正当だと思われる制作の論理がけっして一致しないという問題」と述べられているように具体的にはこの正当性の原理の概念が示されていないからである。

 次回の勉強会は、スタン・ブラッケイジ、Mothlight(1963),The Wold Shadow(1972),Thot (年代不詳)、「脳は絵をどのように理解するか」第5章「文脈と認知」、レディー・フォーペインティング「誰がセザンヌを必要としているかU」を予定しています。

(文:山田宴三)

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