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2006年10月21日(日)京橋区民館

勉強会


今回の勉強会はスタン・ブラッケージ、Stars Are Beautiful(1974),Text Of Light(1974)の上映、「脳は絵をどのように理解するか」第6章「目の動きと美術」、「レディー・フォーペインティング」〈誰がセザンヌを必要としているかU〉−絵画の約束論争−を読みました。

「脳は絵をどのように理解するか」第5章「目の動きと美術」では、人間がはっきりものを見ることができるのは視覚の中心部だけである。そこから、眼球の運動は、その人の興味や認知過程を測定することに用いることが出来る。そして、目の動きと美術に関する認知理論はつぎのような過程に基づいている。心の中にはすでに現実世界に関する複雑な認知的仮説が作られている。それが意識的にしても無意識的にしても注視とその持続時間をコントロールしている。

 以下内容

・ 注視される場所は聞かれた情報の種類によって代わる。

・ 世界について心の仮説を物理世界における確証を求めて目を動かす。

・ 脳はニューロンの複雑なネットワークの中に絵とその内容に関するスキーマや仮説を構築している。このスキーマが活性化されて始めて走査が開始される。

・ 美術作品に対する反応は「拡散的探索と特定的探索」の二つがある。拡散的探索は内容に関係なく茂樹を捜すとされていて、広い範囲に分散、部分ごとの注視の回数は少ない。特定的探索は特別な情報を必要とする不完全な知識によって引き起こされる。美術の訓練を受けた人とそうでない人では目の動きに違いがある。受けた人は特定的探索よりも拡散的探索の割合が多い。

・ 絵の中心を見る傾向がある。

・ 情報に富んだ特徴が注意を集める。

・ 複雑な絵ほど注視時間が短くなる。

 〈誰がセザンヌを必要としているかU〉−絵画の約束論争−では明治時代、詩人で批評家の木下杢太郎と画家山脇信徳との間で「絵画の約束論争」というものがあった。きっかけは、木下から山脇に「絵画の約束」の習得を果たすべく課題としたことから始まった。

 山脇は、自分の感情の赴くままに表現したい。「絵画の約束」はそれを抑圧する。自らの神経的な律動の表記である絵画制作は、あらゆる約束からの離脱の試みである。それに対して木下は、セザンヌを学ぶより伝統と新しい時代の芸術とを調停したマネに学びそこでコンベンションを学ぶべき。約束に立脚しない限り提示される感情は理解されることも共有されることもない。このような議論であった。

 この議論はモダニズムを巡る重要な問題に触れる可能性を備えていたが、絵画のコンベンションを巡る問いと純粋な視覚性という原理を巡る問いとのねじれた関係性があった。そのねじれとは、コンベンションを主張した木下の方が形式主義的に見え、山脇は視覚の原理を主張したけれども恣意的な形式を採択していることにある。

 次回の勉強会は、スタン・ブラッケージThe Garden Of Earthly Delights(1981) ,

Jane(1985),「脳は絵をどの様に理解するか」第七章「遠近法」、〈誰がセザンヌを必要としているかU〉−ロザリンド・クラウス『ピカソ論』−からを予定しています。

(文:山田宴三)

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