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五味良徳展




「五味良徳:動きをはらんだ絵画」 小倉正史

 五味良徳の絵画は、ほとんど発表のたびごとに作品のありかたを変えているように見える。あるときは抽象的な構成であったり、色彩のスタディのようであったり、風景であったり、装飾的な具象のモティーフであったり、さまざまに変化して一定することがない。ほとんどイラストのようであったり、ドローイングのようであったりすることもある。風景にしても、単純にカンヴァスに絵具をのせて描くものから、ビニールや寒冷紗を用いて描くというように、技法が変えられている。そのため、彼の展覧会の一つだけで、彼の絵画がどうであるかを言うことはできなくなる。さまざまな五味良徳がいて、それぞれに作品を発表しているかのようだからだ。
 これは、今日の絵画の混乱をある程度に反映しているとも受け取れるかもしれない。絵画の凋落についてはそれほど言われていないかもしれないが、インスタレーションと結びついた展示の方法や、写真やヴィデオや映画などのアートヘの進出の一般化によって、いわゆる平面の絵画は、マーケットとそれに連動する美術界の危機感を背景にするか、あるいはアートの多様性を容する範囲なかでしか、存続の支持が得られなくなっている。アートにおける絵画の重みは過去のようにはないし、絵画へのアーティストの取り組みかたも変わって当然であろう。なにかの、従来とは違った理由や動機によって絵画を扱ってもよいわけだし、そのときどきの関心や条件によって違った絵画を生じてもかまわないだろう。
 とはいえ、五味良徳の絵画をそうした観点からだけで見てよいというわけではない。今日の絵画は、もっと一般的なイメージのありかたと考え合わせるべきである。ジョルジョ・アガンベンは、ドゥルーズを引きながら、現代におけるイメージは、絵画においても静止しているのではなく、動きをはらんだものとして、実在しない映画の一こまのようであると言っている,そして、そのもとにある映画にイメージを戻さなければならないと。*
 たぶん、どのような映画から自分の描くイメージが由来するのか、そして、どのような映画にそれを一つのこまとして戻すことができるのか、それが、画家としてのアーティストにとっての問題であるだろう。五味良徳は、その問題をありうるさまざまな場面において扱おうとしているように思える。寒冷紗やビニールのフィルターをかけられて現れるイメージは、そこにはない輪郭のはっきりしたイメージヘの運動をはらんでいるし、身体の断片が浮遊するイメージは、それらがどこかで分離した地点を指し示すと同時に、そこでの新たな遭遇を求めているかのようである。こうした彼のいくつもの違った絵画のイメージによって浮かび上がるのは、私たち自身もまた、帰着するべき地点を求めてさまようことを余儀なくされていることなのではないだろうか。
*Giorgio Agamben, lmage et memoire, Editions Hoeboko,1998.
(おぐらまさし/美術評論家)

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