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五味良徳展



「二つの転回」 山田宴三(やまだ えんぞう・美術家)

 五味良徳は、現在、二種類の作品を制作している。どちらの作品もアトリエの窓から見える風景を描いている。一つは、キャンバスにカンレイシャを張り(カンレイシャは後で剥がせるようにしてある、また、制作の過程で何度も張り直すこともある)、アトリエの窓から見える風景をアクリル絵の具で描いたものである。カンレイシャを張ってあるために、直接筆がキャンバスに届くことが無く、その編み目を通って絵の具が画面に定着されるようになっている。そのため、筆によるエッジの効いた表現が和らげられ、キャンバスの地の部分が絵の具によって塗りつぶされにくいために、全体に柔らかく明るい表現になっている。カンレイシャの効果による作品の統一感によって完成度を高めている。
 もう一つの作品は、ビニールシートを木枠に張り、それをアトリエの窓にくくりつけ、風景を見えたまま直接的になぞるようにビニールに直接描き、一応の完成を見た後、その際から枠はずした作品である。一応の完成というのは、風景をなぞるように描くその構造上、描かれた部分が、外からくる光で逆光の影になってしまい、木枠に張られたビニール全体を覆うまで描くことが困難だということである。また、作品をどの様なかたちで発表し、展示するかは、アトリエを訪問した時点ではまだ未定であった。木枠などに張るのか、そのまま壁に貼るのか、その他の可能性も含めて未完成といえるのかもしれない。
 そのため作品は、画面全体を絵の具で覆うことなく風景の一部分が窓意的に切り取られたように見える。また、本人の語るように、ビニールの表面が滑りやすいために出来てくるタッチが、印象派のようなタッチに仕上がっている。印象派的に感じられるのは、タッチだけではない。視覚的に忠実であろうとするために木やその背景の空という空間的な位置関係が弱まり、幹、枝、葉などの各要素がそれぞれ同等な色彩に置き換えられて、描かれたもののゲシュタルトが弱く見えるからだろう。セル画とも、大きなシールのようにも感じられるが、図の部分は、それらの平坦なものに較べると生々しいタッチが眼に付く。
 カンレイシャを用いた作品は、カンレイシャの働きが、パソコンのペインターの効果に似ている。つまり、カンレイシャを用いれば、彼のアトリエの窓から見える風景に限らず、どのようなものであろうと、そこにカンレイシャによる効果によって半ば自動的に入力される風景が加工され、出力される。
 「ひとつの作品の意味は描写なり記述によってしだいに生成していくということだ。それはまた、やや風変わりな言い方をするなら、作品を変数(x)、描写を関数(f)として意味(y)を定める、要するにy=f(x)ということでもある。fのかたちはさまざまに可能であろうが、それらはことごとく意味の生成に関与するのである。」(本江邦夫『絵画の行方』)
 これは作品の鑑賞について述べたものだが、この「やや風変わりな言い方」を絵画構造に当てはめてみると、映像、イメージを変数(x)、描写を関数(f)、作品を(y)と定めたf(x)=yが考えられる。そこでカンレイシャを用いて描くことは、アトリエの窓から見える風景=(x)、カンレイシャによる効果=(f)、彼の作品=(y)と代入できる。つまり彼が窓枠から見えてくる風景を描くさい、カンレイシャという効果=関数に変換することで、世界を構成することを意味している。
 この様に、カンレイシャの作品は、「私は、これまでに“描くこと”とはどういうことかということを、画面に現れたイメージとメディウムとの関係として考えながら制作してきました。」と彼が語るように、整合性の取れた作品である。なおかつ、「それ以前までの自分の作品で目立っていた支持体の具体性を批判的に検討し直そうと考えたのです」という彼の考えにも成功している。支持体の物質性から、メデイウムの機能fに転回されている。そして、ここに出来上がった作品は近代的である。

 ビニールシートに描くことは、筆が滑りやすい質感のためカンレイシャと同じ構造、つまり「ペインターの効果」の機能をしているのだろうか。当然そのような見方もあり得るし、それが作者のねらいであるのだろう。また、それとは別の解釈も考えられるだろう。展示のしかたによっては、ビニールシートに描かれた図が、どの様なものを背景にしたとしても、その背景と図との偶然の出会いによって新たな空間を作り出すというシュールリアリズム的な作品としても見えてくる。しかし、私は、直接的に風景をなぞるように描くことに注目したい。なぜなら、それらでは、収まりきらない何ものかを作品と彼のアトリエに入ったときの印象から感じられた。
 一般に風景画を描くということは、風景と作品、あるいは自分との間に距離がある。言い換えれば、関数fを介在させることである。ところが、ビニールに直接なぞるように描くことは、(描いているのではない「なぞっている」のだ)風景との距離を奪おうとすることである。ビニールシートが介在するとはいえ、そしてまた彼にその意識はないとしても、風景をなぞっているその瞬間は、直接無媒介的に画面、そして自分さえも風景と融合しようとしていることを意味しているのではないだろうか。なぞっているまさにその瞬間、ビニールシートも自分も風景の一部になっているはずである。
 限定された時間や場所、たとえば現在の日本においては、絵を習うということは、はじめビニールシートなどを使わなくても対象をなぞって描く状態から、fを対象と描き手の問に介在させる訓練をするということに他ならない。彼は、この「習う」以前に帰ろうとしているのだろうか。言い換えれば、描写という関数fを無効にしようとする(いかに印象派のタッチに見えようと)ということである。この行為もまた、彼の支持体を顕在化させようとした一連の仕事からの転回である。このfを無効にすることの意味は何だろうか。
 彼のアトリエは、海辺の雰囲気を何処かに残した住宅地、小高い山の中腹、緩やかな登りから、急な斜面を登ったところにあり、間借りしている一軒家の二階の一室に登り詰めたところにあった。そこは、住宅地という社会の周縁、それ以上先のない閉ざされた行き止まりに感じられた。アトリエにはいると、事後的に、井戸の‘底’に苦労して登ってきたような、降りてきたような妙な気持ちにさせられた。彼の描く風景は、その‘底’にあいた穴、あるいは、スクリーンに映し出されたようなものであり、今さっきまで登ってきたはずの風景とは別のもののように思えた。それは閉じた密室である潜水艦の中から潜望鏡で外界をのぞいているような印象、あるいは、彼や我々の属する社会の外部に広がる世界にビデオカメラが仕掛けられ、そこから送られてくる映像が映し出されるモニターである。
 アトリエを取り巻く風景は、風景と私達が相互に関係しあえる、けっして一方通行の関係ではない。ところが、アトリエの窓からの風景は、一方通行なのである。アトリエの中からは、窓から見える風景には何も影響を与えることはできない。一方的に向こうからやってきて、それを受け止めるしかないのである。そのことは、非社会的な関係であり、それは世界の体験である。窓から嶺える世界を直接この我々の社会に導き入れることはできない。そのため、カンレイシャの機能は、この社会の掟に従ったものを作り出すための変換装置の役割をしている。その変換装置であるfを無効にするようなビニールシートの作品を描かせたものとは、「やってくる」ことの驚きなのだろうか。彼は、やってくる風景をなぞることで瞬間世界とつながりを成し遂げようとしたのかもしれない。
 しかし、この作品は皮肉にも、彼が世界をなぞることで、世界と自分が繋がると同時に、そのなぞった部分が外から来る光で、逆光の影になり世界が次第に遠ざかっていく。世界との繋がりを求めれば求めるほど世界は強い光となって目がくらむ、なぞって繋がったはずの世界は暗闇の中に沈んでいく。彼の望みはかなえられることはない。この絶対的な距離、これはまさに画面を埋め尽くせないがゆえに絵画である。なぜなら、絵画は、世界を描き得ないのである。
       

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