「二重性または絵画の無意識」 早見堯
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抽象絵画の創始者モンドリアンは1934、5年ごろのある日、同じ抽象絵画のもう一人の創始者カンディンス
キーを訪ねる。ヒトラーのナチスが支配するドイツを逃れたカンディンスキーの住まいはパリの西、ブーローニ
ュの森の北のヌイーにあった。カンディンスキーの家をでたモンドリアンは、夜の薄暗がりの中でざわめく木立
に身震いしながら、「木が、なんて恐ろしい!」とおののいたのだった。
木や緑に対するモンドリアンの嫌悪感や恐怖感はよく知られている。自然や物質のコントロールできない偶然性
を嫌ったのだ。物質性や偶然性を抑圧し排除することが重要な問題となる。だから、表面を仕切る水平線と垂直
線、そして三原色と無彩色による「地と図」が一つになった、物質性を感じさせない色と形の視覚的(オプティ
カル)な抽象絵画によって、物質性や偶然性を封じこめたのだ。
それから7、8年後、ニューヨークで制作された「ニューヨークシティ」U、Vでは、格子状の線は3原色の紙テープが複雑に上下したまま残されている。その後絵の具で描きなおされるはずだった紙テープの線は、完成した絵画では封じこめられてしまわざるをえない物質性をあらわにする。絵画の制作は、絵の具やキャンバスという物質にアーティストが自分の肉体でかかわっていくことである。紙テープによる作品は、完成した絵画からは消えてしまう材料の物質性や制作の生々しいプロセスをあらわにしていた。色と形の視覚性に封じこめきれない絵画の不条理さに気づかせてくれる。
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村井俊二の1991年から93年ごろまでの、キャンバスを張り支えている木枠やキャンバスの下の木枠のパネルを擦りだすようにして「うつし」だした絵画は、モンドリアンの紙テープを貼り渡した作品を想わせないだろうか。モンドリアンの紙テープが、視覚的な色と形のもとになっていて、完成作からは抑圧され排除されて見えなくされていた材料の物質性や制作のプロセスを見えるようにしたように、村井は画面の裏側で絵画を支えている支持体という材料の物質性を見えるようにしたのである。
村井のこの時期の絵画は、絵画の表面のこちら側から見た様子と裏側から見た様子とが重なりあっているかのよ
うな錯覚をもたらす。描かれた「視覚的な表面」とその描かれた視覚的な表面を支えている「物質的な支持体」
とが交互に現前と不在をくりかえすのである。それは、形を見えるようにする「地/図」の関係とはもはやいえない。視覚性にも物質性にも封じこめきれない絵画の不条理さというべきだろう。
こうした「支持体」と「表面」との現前と不在の葛藤は、「うつす」ことと「重ねる」ことという方法から生まれている。以後、村井の絵画はこの「うつす」ことと「重ねる」ことを中心に展開されることになる。「うつす」こと、それは、先の絵画では表面を擦ってフロッタージュするように下の見えない層を「映し」だすことだった。2000年の絵画「Depth and surface」では、「写され」て透明シートに「転写」された写真が画面に「移され」ていた。03年の「Child Work」では、子どもの描いた絵が「模写」されて「写されて」いる。
「うつす(写す、映す)」ことは「移す」こと、移動することでもある。オリジナルからずれて遅れてしまうことだ。ずれて遅れることは、あるものと別なものとの関係なので、ダブルネスDoubleness(二重性)ということになる。ダブルネスは空間的には「重ねる」ことを内包している。「重ねる」ことの二重性は「折り重ねる」ことでもある。だから、98年の「Depth and surface」の絵画では、写真をもとにした形が画面の上下で鏡像的な関係で折り重ねられていたのだ。ここで、01年の村井の絵画のシリーズ名が「Double bind」だったことを想いだしておきたい。
三原色を重ねて描きながら同時に消していくプロセスを「重ねた」94年の絵画では、現れることと消えること、現前と不在、あるいは可視性と不可視性とがくりかえされて、ダブルパインドを先取りしていた。視覚的な「地と図」の関係から成立しているような安定した形式はずらされて、現前と不在の葛藤のドラマが出現する。現前と不在の葛藤は、時間の中での展開である。色と形であることを主張する空間と、色と形であることが否定された混沌とが時間のなかで「うつろう」。
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今回の「Blind side」では、まず風景などを「写した」写真をパソコンに取りこんで、そこにパソコンのマウスでストロークを描き「重ねた」イメージをつくってプリントする。それを画面に模写して「写し」、さらにそこに「Chlld Work」でつかわれていた子どもの絵を模写して重ね描きしている。変形された写真のイメージと模写された子どもの絵は、ストロークと塗りむらのある面でなぞられてずれて遅れていくので、イメージの根拠はどうでもいいものとなる。移動によるずれと遅れという二重化だけが重要だ。
「写し」の「写し」へとずれて遅れて重なりながら「うつろって」いく。「うつろう」は「うつる=感染する」こと、二重化することだ。写真のイメージと子どもの絵のイメージは物質的な痕跡に還元されてしまいそうな異物としてのストロークやむらのある塗りに「のりうつられ」た状態になっている。自分と他者とが二重化しているのである。
そこでは、絵画の視覚性と物質性、表面と支持体、オリジナルと「写し」などの境界はあいまいになる。ギリシア神話の女性のサルマキスと一体化させられて両性具有になってしまった男性のヘルマプロディトスのように。「〜であり〜ではない」ではなくて、「〜であり〜でもある」と「〜でもなく〜でもない」とが同時に成り立つ場所。
村井の絵画では、「うつす」と「重ねる」の二重化によって、現前と不在、可視性と不可視性などの反対のもの
がそれぞれでありながら、それぞれの反対でもあるということが成立する不条理な場所を開示しているのではないだろうか。そこは、わたしたちが絵画を見るときの約束事や、それ以外のすべてのものを見る見方では、見えなくされ隠されていた場所、「Bllnd side」であるに違いない。「不思議の国のアリス」が遊ぶようなその場所に現れてくるものを絵画の無意識、といってみたい誘惑からのがれることはできない・・・。
(はやみ たかし 美術評論)