「溶ける空間、結晶する表面」 早見堯
開かれた窓の前のヴァイオリニストが奏でる音は、外の海からさしこむ光と共鳴し、そこにヴァイオリニストの体も混ざりあってきらきら輝きながら溶けていく。開館間もないパリのポンピドゥー・センターで初めて見た、マティスが描いた「窓辺のヴァイオリニスト」は、すべてのものが溶けて揺れながら、透明な空間を震わせているようで、わたしの気持ちも震えていた。
昨年の秋、東京の国立西洋美術館で再び見た「窓辺のヴァイオリニスト」では、鈍い色彩の洗練された輝きが空間をうみだしているのだが、その空間の透明な輝きをさえぎるように、表面の不透明な塗りむらやマチエールの物質感にも気づかないわけにはいかなかった。
視覚的で透明な空間を、表面の不透明な塗りむらやマチエールの物質感が溶かしつつあるのでは、とふと思った。
神奈川県の大山のふもとのアトリエで、新山光隆の絵画を見たとき、わたしはマティスの「溶ける空間」の絵画を想いおこしながら、「溶ける」とひそかにつぶやいていた。
画面に流されたマットメディウム、ブルー系とレッド系の色彩、そして注ぎこみ垂らしこまれたランダムなグリッド状のコバルトの線。それらは、流れたり垂れたり、よどんだりしながら溶けあっている。表面で溶けあっているばかりではない。画面の物理的な表面に即していえば上と下、空間的には手前と奥とで重なりあって、中間を意味するメディウムが文字通り中間で媒介してそれらを溶けあわせている。透明や半透明になって色面や線を溶かしているように見えた。溶けあうことがなければ、それぞれの色面や線はあてどなく漂い、いろんな方向に流れて散っていくように思われる。
こうした新作よりも以前の規則的なグリッド状の線が、グリッド以外の色面を押さえこみ、コントロールしていた絵画では、グリッドが、それがなければ散乱しかねない色面を溶かしこんで、動きと静謐さとが共存する空間が現れていた。
けれども、再び見直してみると、新作での「溶ける」感じはどこか違っている。以前の絵画では、すべての要素が溶けあって絵画の空間は視覚的で透明になっていた。
新作では、空間そのものが溶けそうになっているのではないだろうか。
マティスの「窓辺のヴァイオリニスト」では、塗りむらがあったり、絵の具が掻き落とされて表面がよどんだりしている。そうすると描かれたモチーフの透明な表象は半透明や不透明になり、空間も視覚的な透明感を失いそうになる。作品を見るわたしたちの眼差しは画面の表面を突き抜けて透明な表象へと焦点を結ばない。表面の絵の具の物質性に眼差しが止まってしまう。
ジュリアン・シュナーベルやデイヴィッド・サーレ、アンゼルム・キーファーなどの絵画でも、イリュージョンに満ちた空間は、画面の表面に置かれた皿や鉛、絵の具などの物質感や物質感を強調された表面によって溶かされそうになっていたのを想いだしておきたい。イリュージョンとしての空間は骨抜きにされ宙吊りされていたのだ。
新山の新作では、流しこまれたマットメディウム、ブルー系とレッド系の色彩、スポイド状の容器から注ぎこみ垂らしこまれたコバルトのブルーの線などは、色と形という透明な表象や空間としてだけ見えてくるのではない。
画面の表面を流れたり、垂れたり、走ったり、そして、よどんだりする絵の具の動きに注視させられてしまう。絵の具という物質の動きや、それを操作する新山自身の身体のアクションが感じられるのだ。色や形からできている視覚的に透明な空間をさえぎって、絵の具の物質性と描くプロセスとが画面の表面で密やかに結晶している。
塗りむらのある色面のようなペインタリー性と不規則なコバルトの線のようなドゥローイング性、あるいは手前と奥とが、影のようにすべての中間に位置しているメディウムで溶かされて空間的な統一性や視覚的な透明性を獲得しているのではない。
むしろ、そうした空間の統一性や視覚的な透明性は、画面の表面で結晶した絵の具の物質性や描くプロセスによって溶かされ半透明になっている。空間の統一性や視覚的な透明性と、それとは異質な物質性や身体のプロセスなどとが葛藤しているのだ。それによって、空間が溶かされざるをえないところに、絵画の現在性が感じられるのである。
(はやみ たかし 美術評論)