「わたしの眼差しと他者の眼差しの中で」 早見堯
見ることは不思議な経験である。怖いものを前にしたときには目をおおってしまう。目をあけていると怖いものがわたしのなかに侵入してきそうだからだ。もし目をふさがなければ、怖い対象、すなわち他者が勝手に襲いかかりわたしを破壊し失わせてしまいかねない。見さえしなければ問題はおこらないのだから。
絵画を見るとは怖いはずの他者の侵入を受けいれて、わたしが破壊され逆に新たに生まれ変われるかもしれない期待に身をゆだねることだ。見ることでわたしは揺るがされ脱中心化されるのである。これが感動するということだ。わたしの眼差しを他者の眼差しが侵犯するのである
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工藤礼二郎の絵画では見えているものはすべて絵画の中に存在しているにもかかわらず、見ているうちにそれまで気づかずにいたものが遅延された時間とともに次々と立ち現れてくるように感じられる。描かれてそこに最初からあったものなのか、それとも見ているうちに生まれてきた幻視なのかわからなくなってしまう。現に見ている外部のそこには存在しないなにかが、わたしの無意識の深みから生みだされてくるかのようではないか。
だから、見ているわたしは激しく揺るがされる。わたしの眼差しは幻視や無意識といったわたしの中の他者の眼差しとなってわたしを脱中心化するのである。
こうして、工藤の絵画はそこにあるものとそこにはないもの、わたしの外部にあるものとわたしの内部で生成されているものとの狭間に現れてくる。いいかえると、見えるものと見えないものとの生成消滅や葛藤、あるいはその間で絵画が経験されるということである。
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見えるものと見えないもの。これはモダニズムの抽象絵画のメインテーマだった。物質的な感覚的世界から離れて、非物質的な精神的な表現を実現しようとしたのが創成期の抽象絵画である。目に見える感覚的な色と形で、目に見えない精神的なものを表すというアポリア(解決不可能な問題)に挑戦したのだ。目に見える色や形を見えなくしてしまったら絵画ではなくなるし、目に見えている限り絵画は精神的なものにはならない。これの解決方法は、絵画の空間を平面化して、絵画から目に見える色や形をできるだけ少なくするか、現実の色と形を最小限の要素だけに還元して絵画に用いるかの二つだった。前者はロシアのカジミル・マレーヴィチ、後者はオランダのピート・モンドリアンである。見えるものを少なくした感覚の臨界点で見えない精神的なものを出現させる方法だ。
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工藤の方法はそれらとは違っている。絵画の空間を平面的にするのでも、色や形を少なくするのでもない。逆に色を多くする。色の層を何重にも重ねることで、色と色の融合と離反という葛藤を引き起こさせる。色を使いながら色を消していくことでもある。色の顕在と隠蔽あるいは生成と消滅とが同時に起こっている。
形はどう扱われているのだろうか。画面型と同じ形が色が塗られるごとに次々と生成消滅を繰り返して更新されていく。こうした画面型と一つになった形は、「地」の上の「図」であるような形とは違うのでフィールド(場)というべきだろう。
多数多様な色や形をふんだんに注ぎ込みながら、それらを顕在と隠蔽、生成と消滅の中で混一化させて個別の色や形としては見えなくしている。その結果、色に関しては光と闇、形に関しては画面全面への充満と空虚の相反するものが共存した暗くて明るく、沈んでいるのに輝いている空間が生まれている。光と闇、充満と空虚はわたしと他者の眼差しとに呼応して生成消滅を繰り返すので、呼吸し息づいているかのように感じられる。
絵画を見るわたしを他者の眼差しで揺るがしたように、色と形も光と闇、充満と空虚の相反する他者の侵入によって揺れ動かして脱中心化し、もはや色と形とはいえないものにしているのである。
(はやみ たかし 美術評論)