生活と文化の総合センター

 「アート農園」は、美術・工芸・デザイン・ファッションはもちろんのこと、音楽やスポーツにいたるまで、生活全般に関わる様々な活動の中から「心の栄養」という成果物を収穫し、それを糧に豊かな文化生活の提案をしていきます。
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神野八重子展 【MSP】

神野八重子/No1No1  神野八重子/No2No2 

神野八重子/No3No3  神野八重子/No4No4 

神野八重子/No5No5  神野八重子/No6No6 

神野八重子/No10No10  神野八重子/No11No11 


「ヴァニタスと饗応」−神野八重子について 尾ア 眞人

 神野八重子の遅きデビュウ−の絵を目の当たりにしたのは、昨年であった。その時の絵は、かたくなに口を閉ざしながらの心情吐露であった。今回見せてもらった絵やオブジェは、呟きや吐息が直接話法のように伝わってくる。それが美術作品であって、良いのか悪いのか私も迷うとこである。しかし創り手にとって、通過点であることには、違いない。今回の特色は平面と立体の表現の異なるもの同士で構成されていることである。インスタレーションではない表現において何故、平面と立体は組み合わせられたか。そこに作家のジレンマが見えないだろうか。つまり今回出品された平面と立体の作品の間に、「表現から読みとれる意味」と「表現に込めた作家の思い」の差異に温度差があるからである。
対峙される立体の「饗応夫人」と「虚無の弧」は、明らかに「饗応夫人」とその夫として「虚無の弧」が対照的に表現される。「饗応夫人」とは太宰治の同名の小説である。余談であるが太宰治の小説のモデルとされる桜井浜江は、独立美術にいた作家で、戦前から前衛の道を模索している数少ない作家の一人である。その直球の創作理念と、真っ向からの創作態度が私を魅して止まない作家でもある。太宰の矢継ぎ早の息つくセンテンスのない文章は、ただ饗応に明け暮れて、自己を押し殺した菩薩のような夫人像が現されている。神野の「饗応夫人」は外に向けられた羽と、内に秘めた真鍮の棘が、アレゴリーのごとく私たちに飛び込んでくる。直接的に回答が与えられて、イメージはその先には行かない。今回の制作は、これらの立体物が先行して創造されたのではないだろうか。つまり「表現から読みとれる意味」と「表現に込めた作家の思い」に対し、アレゴリーであるが故のあまりの合致に、物足りなさを感じた作者の次の一手が平面となったと考えられる。 そのヴァニタスと記された平面はVanitas 絵画に使われる、移ろいやすい時の流れを持つ静物画を意味していると考えてよいだろう。
 平面の作品は、全て右から左に読む凹面点字が付けられている。それぞれ点字にはNo.1「魂に栄養を!それは毒素と媚薬」、No.2「まるで私は痛みすぎたナイロンストッキングのようだ」、No.3「歯止めのない理性と孤独の中毒脳」、No.4「薄い皮膜がまとい付く1回分の生」、No.5「簡易橋を渡る。対岸に簡易橋の架かるのを、じっと待つ…愚挙」、No.6「渦巻き状の微笑」、No.7「虫のような沈黙」などと作品は続く。問題は、作品の絵画記号からこれらの言語イメージは、引っ張り出せるのだろうか。逆に、言語イメージにつられるのであれば、絵画記号は題名の意味するように読めなくはない。画面に残された指などのキズは、作品の意味する表情を助ける役目はするが、意味そのものには至ることはない。
 ただ点字を用いたのは、興味本位ではなく、コミュニケーション性として、表現の可能性を感じることできた。見るという視覚記号と、一般のコミュニケーション道具の意味性との間で、コミュニケーションできぬ不覚さを私たちに突き刺してくれるからである。点字で構成されたNo.8「ケミカルドラック・・・ステルベン」、No.9「虚栄の子 虚無の子」などの作品には絵画の存続に関わることを示唆するものがあるように思える。今後どの様な展開がなされるのか楽しみの部分である。
 点字の作品化はすでに昨年に試みられていたようである。今回の神野のヴァニタス絵画は、直接話法的な作品題名だからこそであったのか、点字表現を用いることで「作品の意味」と関わらなければならなかった「表現」が「点字表現」と入れ替わってしまったのではないだろうか。
 では何故前回作品との差異が「表現」にでてきたのだろうか。推測の域を出ないが、前回の自己との対峙がかなり遠い、記憶の薄れていく時代からの覚醒であった。作者は消えゆきそうな、学校と家の通学路であった自己の視点を探り当てることで、当時の自己の意識に対面しあった。言語化できなかった心情吐露や、飲み込んだ言葉たちの覚醒であったといえる。今回の対峙は、押し殺したという日常の自覚化のなかで芽生えた、自己との対峙であったのではないだろうか。対峙しなければならない自己が、明確過ぎて一直線に、言語イメージが流れ込んでしまった。その意識化されているか、いないかによって、表現の表層的なアレゴリーを引き起こさせたのではないだろうか。社会を相手にするならそれも良い。自分を相手にするなら、その先の見えてこぬ自分をえぐりだしてほしい。あなたには可能性があると信じているから。そして畢竟絵画表現とはすべからず「私美術」を戸口とすることからしか始まらないからである。

尾ア 眞人(おざきしんじん)