「山田ちさと−支持体をめぐる冒険」 谷川渥
二次元平面にイメージを定着させる絵画制作とは、考えてみれば不思議な営みである。三次元空間のなかに生き、時間軸を入れれば四次元的な存在である人 間は、みずからの認識のかたちを次元の縮約を通して二次元化してきた。人間の知的作業は、ほとんどすべて二次元平面の上でなされてきたのである。なかでも絵画は、記憶の保存として、知識として、現実への投企として、祈りとして、希望として、呼びかけあるいは問いかけとして、理想として、喜びとして、慰 めとして、謎として、そして美として機能してきた。どんなに技術が発達し、新たな認識のかたちが登場してきたとしても、絵画制作のこうした根源性に基本的に変化はないと思われる。しばしば生起する芸術終焉論の中心に据えられる絵画という現象が、危うく見えながらもしたたかに存続してきたのも故なきことではない。
イメージを受け止める支持体は、石、土、板、布、紙とさまざまだが、それらが不透明な物質的平面として用いられてきたことは同一である。アルベルティの『絵画論』は、しかし絵画をまず眼と対象との間に存在する裁断面としてのヴェールにたとえ、次に向こう側の世界を眺めるための四角く切りとられた窓にたとえた。画面のこちら側で受けとめられたイメージは、画面の向こう側に世界を開くことで、いわばその存在が正当化されたのである。透視図法という呼称 がいみじくも示すように、ここでは不透明な物質的裁断面が逆説的にも透明化することが要請されていたのだ。透明化とは、無限遠の消失点へと収束する三次 元的な奥行きの現出ということであった。
もちろん、「窓」だけが絵画のメタファーであったわけではない。アメリカの美術史家スヴェトラーナ・アルパースがフェルメールを中心に絵画制作と地図制作とをパラレルに論じたように、絵画を「地図」のメタファーでとらえることも可能かもしれない。モンドリアンの≪ブロードウェイ・ブギウギ≫などは、まさしくその近代的発現ともみなされえよう。
「窓」「地図」以外に絵画のありようを指示するメタファーがあるとすれば、それはおそらく「版」であろう。血と汗で汚れたイエス・キリストの顔に布をあてがってそれを写しとったヴェロニカの伝説が、西洋における「版」の象徴的起源である。そうして得られた「聖顔布」が左右反転の逆像になっているがゆ
えに、これは「版」以外のなにものでもなく、そしてここではイメージ定着の手段は付着と浸透ということになるだろう。
さて私が絵画の支持体とイメージ成立の基本にこんなにこだわるのは、山田ちさとの作品が支持体をめぐるすぐれて特異な冒険の軌跡としてとらえられるからだ。1980年代に和紙の上に岩絵具でさまざまな「風景」の装飾的ともいえる構成を試みた山田は、日本の伝統的な染めの世界を思わせないでもない独得の色彩感覚を保持しつつ、90年代にいたって岩絵具のみならずアクリルや油絵具を自在に用いながら、これと名指すことのできる個々のモティーフを捨てて画面の自立的構成を模索するようになった。画面が抽象化するにつれてキャンヴァス上に配される色彩の数が目に見えて減り、90年代の後半にはほどんど二系統の淡い色彩によって構成されるようになる。画家としての出発を規定していた日本画的モティーフは、このあたりでほぼ完全に払拭されたといっていい。
特筆すべきは、90年代の終わり頃から画家がナイロン・ファブリックあるいはポリエステル・ファブリックを支持体として用い始めたことである。顔料は岩絵具、アクリル、油絵具であることに基本的に変わりはないとしても、メッシュ状のこれらの支持体は、現在わが国でたぶん彼女だけが実践しているであろう独特の描法を可能にした。つまり画家は支持体の両面から描くことでイメージを成立させることに思いいたったのである。透明と不透明、浸透と付着、そして反転といった問題がここで集約的に浮上することになるだろう。
画家はまず支持体の「裏」から描く。水で伸ばした絵具で染みこませるように自由な形象を描く。あたかも「地図」のような形象が比較的早いストロークによって浮かび上がる。そして支持体を裏返す。今度は「表」から、その上に「地」として残っている部分にマティエールが際立つように絵具をのせていく。「裏」から浸透した比較的彩度の低い部分が今度はいわば「地」となって、主として油絵具ののった比較的彩度の高い部分を「図」として際立たせる。左右が反転するばかりではない。「陰」と「陽」が、「地」と「図」が反転する。そして画家自身の表現を用いるなら、支持体の「裏」で塗り残された部分が絵画の「無意識」であるとすれば、裏返されることでこの「無意識」が「意識」へと転換する。「意識」と「無意識」の反転とでもいうべき現象が生じるのだ。「見えるもの」と「見えないもの」との弁証法と表現することもできるだろう。
支持体は、もはや遮断する平面ではない。デュシャンの≪大ガラス≫は、ガラスを支持体に用いることで透明と不透明をめぐる伝統的な問題に皮肉な回答を突きつけ、わが棟方志功は摺りあがった紙の裏側から賦彩する裏彩色という方法を開拓したけれども、山田ちさとは彼らとはまた違った方法でイメージ成立の場面に一石を投じたといっていいだろう。
それによって現象する画面は、手前に出てくるのでもなく向こう側に引き込むのでもなく、そこにあってしかもそこにないような茫洋とした不思議な存在感をかもしだす。
方法の斬新さが必ずしも効果の斬新さを保証するわけではない。しかし三連祭壇画にも似た彼女の最新作を前にすれば、人はそこにひとつの確かな達成を見てとらずにはいないはずである。