「山田宴三−表層の冒険のために」 谷川渥(たにがわ あつし・美学)
「抽象」絵画が生起してほぼ100年経つ。これまで「抽象」の何たるかについては、さまざまな理論的視点から議論がなされてきた。ヴォリンガーの「抽象衝動」の概念、音楽との類比による「作曲(コンポジション)」の概念、それを支える共感覚の理念、グリーンバーグに代表される絵画の純粋化=自己批判的傾向の強化といったところが主だった論点だが、これにリオタール流の「崇高」論を付け加えることもできるかもしれない。つまり、可視的なもののうちでの不可視的なものの間接的な暗示の要求という視点である。
いずれにせよ、有機的・表現主義的な「熱い抽象」と無機的・構成主義的な「冷たい抽象」といったいささか素朴な二元論的分類をよそに、第二次大戦後、フランス系アンフォルメルとアメリカ系抽象表現主義とを二大潮流として、多種多様な「抽象」絵画が現れては消えていった。60年代以降のおびただしい「アート」群の跳梁の蔭で、一時は「死」を宣告されさえした感のある絵画だが、それでも当然ながらその命脈は尽きず、どころか新たな展開可能性の地平が開かれつつあると見ることもできるだろう。
しかし、ことわが国の状況において、いくつかの看過しえぬ傾向が顕在化してきたように思う。第一に、なにかものの拡大をもって抽象を装う傾向である。具体的なものか、もともと抽象的なパターンか、対象が何であるにせよ、抽象/具象の二元論を実質的に解体する仮面としての「抽象」である。これと関係する第二の傾向は、ぼかしである。「伝統的」な蒙朧体の抽象版で、対象をぼかすことで、これも抽象/具象の危うい境界線上に立つ。第三は、嫌な言葉だが、へたうまである。おそらくあの3Cと呼ばれたイタリアのキア、クッキ、クレメンテあたりの影響で、多くは発育不全みたいな人間を稚拙な線で表象する。これと軌を一にして出てきた第四の傾向が、漫画化である。わが国の漫画のレベルの高さはいうまでもないが、その余勢を買うかのように、アート/コミック、アート/デザインの境界を攪乱しつつ漫画的表象をあっけらかんと、しかも技巧的に展開する。これら四つの傾向は、具象への素朴な回帰を拒むそれなりの努力の現れではあろうが、私にはこうした傾向が絵画を蝕んでいると思えてならない。
さて、私が「表層の冒険」と呼ぶのは、このような「逃げ」を打たずに絵画の可能性に賭けることである。抽象絵画として括られるもののなかでいったいどれだけの作品が「表層の冒険」の名に値するだろうか。 そうした観点から近現代の美術を見直してみなければならないと感じているが、そんなとき山田宴三に出会った。
私が彼の作品に初めて触れたのは、和紙を支持体として腐蝕したかのような画面を構成してみせた個展においてであった。作品はどれも小ぶりなものだったが、私はそこにまぎれもなく一個の「表層の冒険者」の存在を感じたのである。この人の制作の軌跡に注意したいと思った。
今回の個展は、それら禁欲的ともいえる小品たちとは対照的に、油彩画の原点に立ち還ったかのような筆触もあらわな作品群によって成る。青、赤、黄の三原色を中心に緑、紫、茶など比較的彩度の高い色彩をおおむね横のストロークで画面に塗りたくったような作品群である。その荒々しさに打たれたあと、画面を交叉する対角線のようなものが見えてくる。作家は、二本の対角線を設定したあとに、それらを一応の基準線として絵具を置いていくらしいのだ。構成と恣意、制約と奔放、慎重と大胆とが筆の動きのうちに止揚されて、そこにいわくいいがたい油彩画が成立する。
荒々しいと私は書いたけれども、山田宴三の絵画は、荒々しく、そして同時に優しい。その作品の前にしばらく佇むうちに、観者は荒くはねつけられるというよりは、その色彩の混沌のうちに優しく包みこまれるような感じにとらえられるだろう。それこそが彼の作品の成功していることの証しかもしれない。少なくともそれは表層の冒険のひとつのありようである。