「半透明な布の不透明な絵画の透明性」 山田宴三・美術家
人間はある立場に立ち、声高に対立するものを攻撃する。このことは、社会的なことから、絵画、芸術にいたるまで、今でもわれわれを抑圧し続けている問 題として大きく立ちふさがっているのではないだろうか。この政治的ともいえる構造を山田ちさとは、絵画構造に見いだした。
だから、シュポール/シュルファス とは、画布を張るための木枠(支持体)を露出させる(ドゥルー ズ)、あるいは画布(表面)だけを取り出す(ヴィ アラ、カーヌ、セトゥール)、といった程度の新=様式なのではない。先行する前衛たちによる加速度 的な交替現象として現れた数多くの新=様式が、い わば「形式的な飽和状態」(プレネ)として沈 殿し ている事態を前にして、彼らはこの交替史に新たな 項をつけ加えるのではなく、この交替史が法/侵犯と いう働きによって逆に抑圧してきたものを露出させ、 この交替史を成立させるイデオロギーに反撃することを、自らの制作の基軸としていったのだ。 松浦寿夫「終わりなき反復」より
山田ちさとの作品は、支持体(木枠や透けるほど薄いポリエステルの布)が作品の構成要素として組み込まれている。それ自体は、シュポール/シュルファ スの影響といっていいだろう。タイトルのVisible/Invisibleとは、「この交替史を法/侵犯という働きによって逆に抑圧してきたものを露出させ」ることと同一の構造といっていいだろう。彼女は、身近な現実からそのような問題を感じ取り出発した。最近の作品では、その問題設定が、視覚と絵画の問題に重心が移されてきている。この重心の移動には、作者自身の問題というよりも違った力が働いていると直感させられるのだが。 ともあれ、その視覚と絵画の関係においての法/侵犯とその働きによって、抑圧されたもの、このVisible/Invisibleとはどのような意味が あるのだろうか。
作品は、薄いポリエステルの布にビニールのようなアクリル絵の具と岩絵の具で描かれている。岩絵の具をアクリルのメデュームで薄く溶き、グラスの形象を描く。その後、布を木枠からはがし、布を裏返す。その裏返された布に形象を描くことでできた「地」の部分にアクリル絵の具にジェルメデュームを大量に混ぜることによって、絵の具の厚みとビニールのような質感をもたせて、力強く塗りこむ。その効果は、裏返された「地」の部分を際立たせている。このもっとも積極的にアクリル絵の具で塗りこめられた部分を「図」と呼んでいいのか、依然として「地」と呼ぶべきものなのだろうか。「地」と「図」の反転、表裏の反転、ポジのようなネガの絵画である。
布は裏返され、はじめにグラスを描くときできた木枠を暗示する形(木枠で筆が止まったり、それをまたいだりして描かれた)がそこには組み込まれている。描かれた部分は絵の具の薄さと寒色系のために布の半透明感に回収され、木枠を暗示する形がそこに参入して、描かれた部分とポリエステルの布、そして木枠の形が三つ巴になったかたちで「図」を形作ることになるのだが、その「図」であるはずのものが裏返され筆痕やにじみの形が「地」に沈んでいくようにみえる。布は反転され、色彩とマチエールも反転され、木枠が暗示され、「地」と「図」の関係が不明瞭になっている。作品は明瞭に、明るく、おおらかにそこに存在してみえる。にもかかわらず、言葉で捉える次元があやふやなものに溶解されてしまうのだ。
だとしても、ここであらわになって見えてくるものは、彩度の高い色彩とコラージュしたかのようにみえるマチエールの効果である。この見えてくる形は、実は、「地」であるはずのものであり、意識に上りにくいものである。それがここでは作品を色彩の印象と平面性の強いものにし、われわれの作品に対するイメージを決定づけようとするかのように見える。
しかし一方、透明な絵画を邪魔する組み込まれた木枠の形(この作品における木枠の形はコウモリのように裏表どちらにも機能する)や半透明な布へのフェティッシュの引力によって、われわれはそこから遠ざけられる。半透明な布が、偽りの「図」で 構成された絵画の透明性を不透明にすることで告発しているのだ。この二つの引力は、われわれが日常的現実と色彩の世界との間を行き来する檻の中の動物であることを告げ、われわれを不快な宙吊り状態にさせる。いかに明るく、おおらかに描かれていようと、であるからこそ、概念をつかみ取ろうとする働き、われわれが自ら従おうとする、コード化された思考を志向する働きに対し、われわれを偽りの表の色彩世界に引き戻そうとするのである。この不快感はVisible/InvisibleをVisibleがInvisibleに、InvisibleがVisibleにへと反転可能であることで決定不可能であることをこのような形で知らしめているのである。
裏返した地に高彩度の色彩と強いマチエールを施したとしても、グラスという対象が絵画構造に解体されようとも、グラスのイリュージョンは消えることはない。同様に、グラスという言葉でさえ、{(グラス=透明=Invisible=概念と、グラス=Visible=不透明=視覚)しかしそれは決定不可能である=半透明}というイリュージョン=透明性を作り出し、絵画構造に組み込む。このように作品は、単純に見えながらも複雑な手続きを経てVisible/Invisibleの判別しがたさ自体をグラスと同様に、イリュージョンとして包み込む絵画空間を創りだしているのである。