アート農園は2006年10月29日〜11月23日に開催されたアートプログラム青梅2006に参加しました。会期中に行われたワークショップ及び、吉川英治記念館にて会員作家の作品展示の様子をまとめた報告書を掲載致します。
アートプログラム青梅 2006・4th
二俣尾・武蔵野市民の森ワークショップ開催報告書
(PDF/88.9MB)
アートプログラム青梅2006 「緑化する感性ー街道を読むー」に参加して
NPO法人アート農園代表 芝章文
2005年、アートプログラム青梅「里山と在る」と題されたシンポジウムにパネリストとして参加したことが切掛けとなり2006年、主会場から
少しはなれた「吉川英治記念館」と「武蔵野市民の森自然体験館」を舞台にNPO法人アート農園が本展に参加することとなった。当初実行委員会
代表の原田丕さん達と青梅市二俣尾の里山にわけ入り、子供の頃に戻ったように自然と戯れ、はしゃいだあと「自然のなかで何かできないだろう
か?」と思案したことが参加する動機付けとなった。会員の大半は都会に暮らす人々で、日頃とりたてて「里山」や「自然との共生」について考
えていたわけではないのだが、「内なる郷愁」に突き動かされて、自然のなかに包み込まれ、溶け込むことで、新たな発見、喜びを体験すること
ができるのではないないかと考えた。
ワークショップを通して子供達の制作の手助けをしながら、自然のなかで地域の人々とふれあい、まるでリクレーション気分といった感じでま
さに「緑化する感性」を地でいくような、楽しいひとときを過ごすことができた。
日常の営みのなかでアートがどれほどの力を我々に与えてくれるだろうか。ワークショップに参加した子供達の無垢な取り組みに接しながら、
都会では味わえない素直なこころを取り戻したように感じた。
近年、「大地の芸術祭 越後妻有トリエンナーレ」など、こうした地方で町おこし、村おこしを背景としながら「自然との共生」をテーマに多く
のプログラムが組まれているが、いずれにしても地域に住まう人々との連携と文化を根付かせようとする企画者側の強い意志が、必要不可欠であ
ることは言うまでもない。
吉川英治記念館の展示では参加作家18名25作品を展示することができた。合同展といったそしりは免れないが、ひと
まず参加することの意義を見いだせたことが大きな収穫である。今後とも微力ながら応援していければと考えている。
アートプログラム青梅2006参加報告
NPO法人アート農園理事 山田ちさと
東京の北西に位置する、青梅の街に初めて行ってから、かれこれ2年以上になる。東京の北東に住む私の家からは2時間ぐらいかかるので、ち
ょっとした旅行気分に頭を切り換えないと、とてつもなく遠く感じる。地名の通り梅の生産や繊維の伝統もあるのか、なかなか味わい深い文化の
ある古い街のようだ。そんな理由もあって、在住している美術家も多いらしい。その人達が中心になって、「青梅アートプログラム」というアート
イヴェントが毎年開催されている。
2006年は我がNPOアート農園もこのイヴェントに参加した。メンバーの作品展示とアートワークショップの開催という二つの形を取った。
アート農園に割り当てられた、作品の展示会場は青梅駅からさらに奥多摩線に乗って4駅ほどの二俣尾が最寄り駅の「吉川英治記念館」である。
このあたりまで来ると、東京都とはとても思えない、山と山に囲まれ、多摩川の上流に当たる川が流れるという、静かな山里である。吉川英治は
昭和を代表する歴史小説家の一人でファンも多いと聞いている。私も小学生の頃NHKの大河ドラマで見ていた「新平家物語」の原作者だと言う
こと知っていた。豪農から譲り受けた大きな藁葺き屋根をもつ農家が吉川英治の旧家で今の記念館になっている。ここでメンバーの中から20名ほ
どの美術家が展示をすることになった。
初めてここを訪れたときから私は、この家の南側をぐるりと巡る縁側に明治以降に入れられたと思われる、古いガラス窓が気になっていた。私は
「支持体」をひとつのテーマとして作品を作ってきた。この微妙にゆがむガラス窓を支持体にして作品を作ってみたいなーと、考えたのである。結
局この窓を使うことは許されなかったが、そのかわり、新館のエントランスに5メートルほどあるガラスの壁を使うことができた。ガラスの壁を支
持体にすると言っても、もちろん直接描くことは出来ないので、30cm角の透明アクリル板を53枚ほど使って制作した物をガラスの壁に貼る形
にした。エントランスの内側からは記念館のシンボルとも言える堂々とした楠や、大きな藁葺き屋根、そしてその向こうに奥多摩の山々が見える。
その風景を自分の作品に取り込みたかったので今回は透明のメディウムだけで仕上げた。そんな訳で思惑通り、展示期間中は私の作品越しに風景が
揺らめいて見えたと思う。色彩を一切使わなかったので、展示するまでは不安があったが。うまく周囲とも溶け込んで記念館の歴史にささやかな足
跡を残せたと満足している。
もう一つのイヴェント、アートワークショップは会場が「武蔵野市民の森」。「周囲の間伐材や捨てられてしまう木っ端を使用して工作をしよう
!」というもの。安い輸入材に押されてこのあたりの林業は今日、壊滅的らしい。やればやるほど赤字になる構造的な問題を抱え、山は荒れ放題だ。
しかし、この奥多摩は実は東京都民の水の出どころだ。山を荒れ放題に放っておいてはそのうちに飲み水にも困る事態になりかねない。そんな問
題を武蔵野市の子供達に学習してもらおうと建てられた「武蔵野市民の森」は土地の材を使ったシンプルにして気持ちの良い空間だった。前庭にも
木の皮で出来たチップが敷き詰められていて、ふかふかして暖かみがある。そんな環境の中でメンバーと子供達はワークショップとバーベキューを
楽しんだ。
参加してくれたのは、下は2才から小学生の子供達。そして近所にある知的障害者の作業所に通っている人々。子供達は青空の下、開放的な場所
で木の板や材木の切れ端に歓声を上げた。思い思いに手頃な大きさの材木を椅子にしたりテーブルにしたりして木の板に絵の具を垂らしたり、クレ
ヨンで描きなぐったりして楽しんだ。絵の具のチューブを思いっきり握って板に天こ盛りにする子もいて、見
ている方もびっくりするような大胆な
作品も産まれたりした。やはり材木という素材そのものにオーラがあるのだろうか、帰るときに自分の頭より大きな材木を両手で抱えて一生懸命持
って帰ろうとする子もいてこちらも見ていてうれしかった。製品として、商品として完成された物に囲まれている現代生活の中で、半素材である材
木に触るということはどこか物の本質に触れられるような気がするのだが、幼い子供達もそのことにどこかで気が付いているような気がしたのだが
考えすぎだろうか?大きい子達は板と板をつなげるのに金槌を使って釘を打ったりタッカーを使ったりして立体作品に挑戦した。最初はぎこちなか
った手つきもしだいにコツをつかんで、いいペースで立体物が出来ていく様をながめるのはなかなかに頼もしくもあった。実はなんだかそこで起き
ていることを全て受け入れられる気分になっている自分に少し驚いたりもしたのである。教室で普段美術の授業をやっている自分とは明らかに違う
気がした。
緑豊かな地で木っ端を使って遊んでいると木の香もかぐわしく、そんなこんなでお腹も空く。バーベキューでの焼きそばや焼き芋が格別においし
く感じられた。やはり、たまには自然に触れ、大地や野山に「戻る」のは大人、子供を問わず誰にとっても必要なことだろう。現状の経済システム
の外で生きていくことはもちろん無理なのだが立ち止まって考えたり感じたり、または体を動かしたりすることは出来る。地球という閉じられた環
境の内側でこれからも何とかうまくやっていかなければならないことは自明であるのだから、こうしたささやかな活動に参加して、ときどきシステ
ムの外周部に佇んで見るのはむしろこれからは自然なことになっていくのだろう。透明な私の作品がその環境になじんだときの一瞬のじんわりとし
たうれしさと、無心に子供達と一緒に木っ端と戯れている時の静かな安らぎはどこかで通底しているのかも知れない。